日本先哲医家資料集
『日本の漢方を築いた人々』
☆近世漢方医学書編集委員会編 医聖社発行 平成6年(1994)
目 次
01■ 田代三喜
「我が邦名医多しといへども、像祀せらるるは、古来ただ鑑真と田代三喜あるのみ」(富士川游『日本医学史』)と記されているように、三喜は室町時代の末の頃、『局方』の学のみが行われていた時代に生まれ、初めて李朱医学を唱え、その学と術とを行い、関東一帯を風靡したのであった。実にわが国における李朱医学の開祖である。
三喜は寛正六年(一四六五)武州(埼玉県)川越に生まれたとされるが、出生地は川越の北方約二○キロの越生という説もあり、現に埼玉県史跡指定になっている三喜生誕の地が越生にある。
十五歳の時、医に志し、当時は僧侶でなければ医となれないので、妙心寺派に入って僧侶となった。長享元年(一四八七)二十二歳の時、明に渡り、留学すること十有二年、李朱医学を学び、またその頃既に日本より明に留学して医を行っていた僧医月湖について修業している。明応七年(一四九八)月湖の著書『全九集』や『済陰方』その他の医書を携えて帰国、一時鎌倉に居を定めていたが、後に下総(茨城県)の古河に移った。これは古河公方の足利成氏が三喜の高名を聞いて招請したものである。以後世間の人は「古河の三喜」と呼ぶようになった。古河に居ること数年にして生地武州に帰り、ほとんど関東一円の間を往来して医療に従事し、済生の功績はきわめて多かった。その間、六十七歳の時、名声を慕って、初代曲直瀬道三が三喜を訪れている。天文十三年(一五四四)八十歳(一説には七十三歳)で死去。三喜には範翁、廻翁、支山人、意足軒、江春庵、日玄、玄淵、善道など多くの号がある。
三喜の著書はまとまったものが少ないが、『三帰廻翁医書』(『三帰十巻書』)は三喜の代表的著書の集大成されたもので、三喜によって日本化された李朱医学の全貌を知る珍書であり、書誌学的にもきわめて貴重である。三喜の医説の特徴は、すべての病因を風と湿との二邪に帰し、寒暑燥火も風湿の消長によって起こる現象であるとした。そして体内にあって病を受け入れるものは、血・気・痰であると解釈した。その中で特に血と気が重要であるとしている。(参考・矢数道明『近世漢方医学史』)
02■ 曲直瀬道三
いうまでもなく、わが国に実証的医学発達の端緒を招いた医学中興の祖として崇拝されているのが曲直瀬道三である。道三は名を正盛、また正慶ともいう。字は一渓で雖知苦斎(すいちくさい)、盍静翁(こうせいおう)または寧固(ねいこ)と号し、院号は翠竹院、のちに亨徳院と称した。永正四年(一五○七)京都の生まれである。
十歳のとき江州(滋賀県)守山の天光寺に入り、十三歳のとき相国寺に移って喝食(かつじき)となった。二十二歳のとき遊学の志を立て、下野(栃木県)の足利学校に入る。その頃、明の留学から帰った田代三喜が初めて李朱の医方を関東で唱え、関東一円の間を往来して治を施していた。道三は享禄四年(一五三一)会津の柳津で三喜と歴史的な出会いをしている。そして、入門すること数年、李朱医学を講究し、古来の諸論、諸方の可否を明らかにし、用薬百二十種の効能を伝授され、天文十四年(一五四五)三十九歳の時、京に帰り、医術を専業に行うこととした。
李朱医学を基礎に医師として名声を得た道三は、いままでに見られなかったタイプの医師であった。すなわち名もない家柄から医師として一家をなし、将軍に仕えるまでになったものはいなかった。時がまさに戦国の下剋上の世であったればこそ、より実践的で役に立つ彼の医学が人々に瞬時として入れられることになったのであろう。道三はまた、啓迪院なる学舎を創設し、後進の養成にも力を注いだ。この啓迪院はわが国の医学教育史上きわめて重要な存在である。彼はこの医学教育の中で五十七ヶ条の医家の守るべき法を門人に与えているが、それは非常にプラグマチックなもので、よけいな道徳的説教は一条たりともなかった。ただ第一条に「慈仁」とだけ記されているのみである。
道三の代表的著述は『啓迪集』である。これは李朱医学の立場から古今の医書の主要な部分を抜粋し、簡潔に表式化したもので、それに自己の経験を加えている。その他、『切紙』『薬性能毒』『出証配剤』『遐齢小児方』『涙墨紙』『雲陣夜話』など多数ある。文禄三年(一五九四)没した。八十八歳であった。(参考・矢数道明『近世漢方医学史』、森谷尅久『京医師の歴史』)
03■ 曲直瀬玄朔
二代目道三となった曲直瀬玄朔は、養父の初代道三の功績を恥ずかしめない医家としての実力を備え、初代道三と共に日本医学中興の祖と称されている。玄朔は天文十八年(一五四九)京都に生まれた。本名を正紹といい、通称道三(二代目)、東井と号した。初代道三の妹の子で、三十五歳の時、道三の養子となり、曲直瀬家を嗣ぐ。十二代にわたり日本の医界に君臨した曲直瀬家(三代目から今大路家と改めた)の基盤を築いた人である。玄朔の医法は初代道三と同様、あるいはそれ以上に、徹底してプラグマチックであり、医家の諸説を採長補短して自説の中にとり入れるという、基本的には李朱医学ではあるが、非常に幅広い考え方をもった人であった。
玄朔は天正十年(一五八二)法眼に叙せられ、文禄元年(一五九二)に征韓の役で朝鮮に渡ったが翌年帰国、喘息発作に苦しむ関白秀次公を治療して著効をあげた。慶長十三年(一六○八)徳川秀忠の病を治して江戸に招かれる。そして城内に邸宅を賜わって、京都と江戸に交代で住むようになった。玄朔は寛永八年(一六三一)、江戸で没した。享年八十三。
玄朔には多くの著書がある。そのうちの『医学天正記』は、玄朔が二十八歳のときから五十八歳までの三十年間にわたる診療記録を整理し、中風から麻疹に至る六十の病類部門に分類して、患者の実名、年齢、診療の年月日を入れ、日記風に記載されているもので、史学の文献としても重要視されている。ときの帝(みかど)正親町天皇、後陽成天皇を初め、信長、秀吉、秀次、秀頼、秀忠などの関白将軍や、公卿左大臣近衛公を筆頭に、公達、女院、文人墨客、毛利元輝、加藤清正などの諸大名、その他の重臣、家臣足軽から一般庶民に至るまで、三四五例(異本では六二五例)に及ぶ治験集である。
この書によって、金元李朱医学が初代道三と玄朔によってどのように日本化され、後世派医学のいわゆる「道三派」として流布されたかがわかり、その診察法や治療体系の概略を、臨床記録を通じてうかがい知ることができる。また『延寿撮要』『十五指南篇』などもある。(参考・矢数道明『近世漢方医学史』)
04■ 長沢道寿
長沢道寿はまた土佐道寿とも呼ばれる。田代三喜が古河三喜、永田徳本が甲斐徳本と呼ばれたのと同じように、その活躍した土地の名を冠することが当時行われていたためといわれる。しかし、田代三喜は古河の産ではなく、川越あるいは越生の産といわれており、後年古河に在って活躍したのであると同様に、道寿もまた土佐の出身ではなかったらしい。道寿の父長沢理慶は阿波の人といわれ、のち京都に出て足利幕府に仕え、河内の国に所領を得ていたが、天正の頃に浪人して京都に移り、医を業にしたといわれる。天正十三年(一五八五)山内一豊が近江の長浜で理慶と嫡子理成を召出し、慶長六年(一六○一)一豊が土佐に移った時に随従して、土佐藩の最初の医官として仕えたという。
道寿は理慶の次子として京都に生まれたと思われ、同地で成人に達して、医を曲直瀬玄朔に、運気を吉田宗恂に学んだといわれる。慶長六年に土佐に移り、父理慶が没するに及び、遺禄二百石を?襲った。
道寿はその後、故あって勤めを辞し、二児を兄理成に托して単身京都に上り、初め柳庵と号していたが、のち丹陽坊または売薬山人と号した。織田信雄に四百石で召し出されたが幾許もなく辞し、仁和寺傍の双ケ岡に隠棲して医業に従事していた。山内家の家老が藩主の治病のために土佐に招き、側医に推挙したが、これをも辞退して京都に移り、寛永十四年(一六三七)に没した。
道寿は曲直瀬玄朔の学統につながる医家であるが、道寿の学問について浅田宗伯は、「その学、素難を祖述し、李朱に折衷し、尤も精を薬品に致す。大坂堺市の薬舗、今に至るまで薬の良なるものを称して土佐用という」がそれである。道寿はまた朱子の小・大学の意に倣って、小学七科、大学八科の医学進修の指針とした。著書に『医方口訣集』『藪医問答』『増補能毒』『治例問答』らがある。『医方口訣集』は門人中山三柳が増補し、さらに北山友松子が頭註式に添加し、『増補口訣集』として刊行された。『増補能毒』は曲直瀬道三の『能毒』を改訂増補したもので、臨床に密着した特異の書である。(参考・大塚恭男『『医方口訣集』と長沢道寿、中山三柳、北山友松子』』、安井広週『長沢道寿とその医術』)
05■ 岡本玄冶
玄治は曲直瀬玄朔の高弟として、またその女婿として、さらに三代将軍家光の侍医としてその名を知られる江戸初期の名医である。
玄治は天正十五年(一五八七)京都に生まれた。呈譜左大臣胤三十二世の後裔とされ、先祖より代々京都に住んだという。年少の頃より典籍を学び、長じて玄朔の主宰する啓迪院に入門し、頭角をあらわした。慶長年中に家康に拝謁し、元和九年(一六二三)家光が京都に来た時に召され、その後隔年で江戸と京都に住むようになった。その間法眼に叙せられ、のち法印に昇進している。法印昇進の際、「啓迪院」を正式の院号とするようになった。家光には非常に重用され、幾多の功のあったことが記録に残されている。例えば、家光の病気の際、諸医術を尽して効験なく、玄治が薬を奉り平癒したため、白銀二百枚を賜わっている。玄冶は将軍家のみでなく、皇室に於いても篤い信頼を得ていた。
玄冶は官医としての生活の他に、啓迪院の主宰者として多勢の弟子達の教育に当った。門人の中では『古今方彙』の著者甲賀通元とその弟景元が著名である。玄冶には『玄冶薬方口解』『玄冶方考』『家伝預薬集』など著書が多いが、そのほとんどは門人の筆録になる。それだけ多くの弟子達が彼の周辺にあったと考えるべきであろう。玄冶は正保二年(一六四五)五十九歳で死去し、渋谷の祥雲寺に葬られた。
玄朔の娘を娶り、啓迪院を号し、道三の奥義の書を伝うる者は諸品一人なりと称せられた程であるから、玄冶の医術は曲直瀬流の最も正統とされるものを受け継いでいるが、道三・玄朔のそれと比べると若干の違いがある。その一つは経時的なもので、三代の間に積み重ねられた経験が臨床に大きく影響しているということである。もう一つは、道三から玄冶に至るまでに中国で多くの新しい文献が書かれ、それらがいちはやく輸入されて取り入れられたということである。玄冶に於いて最も影響が見られるのは、『万病回春』である。玄冶の処方解説や治験例を見ても、『万病回春』の処方が非常に多く、臨床応用への道を開くなど、業績を上げた。(参考・安井広迪『岡本玄冶』)
06■ 黒川道祐
道祐は名を元逸(玄逸)といった。道祐はその字である。静庵、遠碧軒、梅林村隠などと号した。儒を林羅山に学び、医を堀正意(杏庵)に学んだと伝えられる。正意は道祐の外祖父にあたり、曲直瀬正純のもとに医を学び、藤原惺窩に儒を学んだという。
道祐の生年は明らかでない。一説には元和八年(一六二二)とある。道祐は業成ったのち、芸州侯に医を以て仕えたが、ほどなく辞して、京都に移り住む。京都での道祐の生活は詳らかでないが、寛文三年(一六六三)には、『本朝医考』を完成している。その間、京都遊学をしていた医師、本草家である貝原益軒と知り合い、生涯を通じての友情が育まれている。道祐は本草に関する見識をうかがうに足る『雍州府志』を著しており、遠藤元理の『本草弁疑』に序を寄せてもいる。これによって、本草に関しては、知識としても、実際上の面でも一家言をもっていたことがわかる。
道祐は元禄四年(一六九一)京都で没した。京都市上京区智恵光院通の本隆寺に墓がある。『本朝医考』は道祐の主著で、本邦における医史学書の嚆矢である。上中下三巻よりなり、巻頭に林家二代の林鵞峰の序がのせられている。「芸州の医官法眼黒川道祐、国史を窺い、旧記を考え、演史を猟り、小説を択び、禅徒の残藁を閲して、医家の出処、術業および叙位、産薬等の事を抄す。且つ近世聞見するところを加えて、聚めて三巻となし、本朝医考と号す」と本書成立の経緯を述べ、「今より後、医家の典故はそれ祐に問わんのみ」と道祐の功を讃えている。
上・中巻では大己貴命よりはじめて和気・丹波両氏、吉田氏、曲直瀬一門、高取流外科、馬嶋流眼科に及ぶわが国有名医家の伝記を記している。下巻では推古朝以来の疾病史、医療史を述べ、さらに各地に産する妙薬を記している。
『本朝医考』のほかに、道祐の主要著書としては『雍州府志』『日次紀事』『芸備国郡志』『遠碧軒随筆』などが知られる。(参考・大塚恭男『黒川道祐』、杉立義一『京の医史跡探訪』)
07■ 名古屋玄医
古医方を唱導した医家として知られるのが、名古屋玄医である。玄医は寛永五年(一六二八)京都に生まれた。字は富潤、またの字を閲甫、冝春庵に居し、晩年自ら丹水子と号した。弱齢から多病で足が不自由になり、またたいへんな口吃であったが、よく書を読み、学に秀でていた。経学を足利学校の徒・羽州宗純に学び、周易筮儀に長けていた。特に『周易』の本義は「貴陽賤陰」にあると会得してから、この理に基づいて、『内経』『難経』『諸病源候論』『傷寒論』『金匱要略』の諸書を一貫した医書として把握しようとした。彼は張景岳・程応旄の学説の影響下に衛気の虚を助けることを病気の本治法として、そのあとで、残った病状に対し、虚実を考慮して、標治することを説いた。玄医の代表的著書である『医方問余』とは、まず虚を治し、そのあとで余を問うの意である。
四十六歳頃から運動麻痺となり、両手も痿痺して廃人の如くなったが、気力は少しも衰えることなく晩年まで多くの著述をあらわした。前記の『医方問余』のほか『医学愚得』『丹水子』『丹水家訓』などがよく知られる。玄医の医の師は定かではないが、著書『金匱要略註解』中に吾師・福井慮庵とある。慮庵は曲直瀬玄由の門人で、名古屋玄医の「玄」は曲直瀬玄朔の一門の名に由来する。元禄九年(一六九六)没す。享年六十九歳。墓は京都市浄福寺にある。
古方派を字義通り解釈すれば、古医方すなわち張仲景方を宗とする学派ということになる。しかし、玄医の学説は曲直瀬すなわち後世派の学説を否定する形で構築されたのではなく、張景岳など「易水学派」と程応旄などの「錯簡重訂派」の影響下に形成されている。すなわち貴陽賤陰、扶陽押抑陰を治療指針とする独自の生命観に立って古典への回帰を説き、その線上に傷寒論があった。こうした医学思想の基盤は、当時の儒学、特に仁斎学にあると考えられる。玄医の「万病はすべて寒気の一に傷られるによって生ず」という病因論や、歴試という経験主義的実証主義は後藤艮山や吉益東洞に連なり、内藤希哲の医説には重要な部分で玄医の思想が受けつがれている。(参考・花輸壽彦『名古屋玄医について』)
08■ 北山友松子
大阪の南、天王寺区の太平寺に安置されている北山不動明王には、灯明台や香炉に灯火や香煙が絶えることがない。この不動明王は、元禄時代に大坂で開業していた漢方医・北山友松子の化身なのである。
友松子は名を道長、通称を寿安といった。友松子はその号であるが、別に仁寿庵、逃禅堂などとも号した。父は明の人で、長崎に亡命してきた馬栄宇である。長崎丸山の遊女との間に生まれた混血児が友松子であった。
長ずるにおよんで、明から承応二年(一六五三)長崎に渡来した僧医で、後に帰化して黄檗山万福寺の隠元禅師の弟子となった戴曼公に師事した。戴畳公は在明時に晩年の龔廷賢(『万病回春』の著者)に親炙した人物である。友松子は、小倉の医師原長庵にも学んだという。一時小倉侯に仕官したが、幾許もなく辞して京都、大坂に至り、結局大坂の町の気風が気に入って、道修谷といわれる川のほとりに移り住んだ。
数多くの医書を読みこなし、治療も上手であった彼の周囲には、次第に大和や紀州の薬種問屋が集まってきて、それが道修町の繁栄の起源となった。人となりは剛直で、歯に衣きせず論駁したが、医師としての自らを律するにはきびしかったという。名利にこだわらず、富豪が分不相応に少ない謝礼をすれば責めるが、貧者には薬ばかりでなく、米や銭までも与えるという具合いであった。
友松子は生前に不動明王の石像を作らせ、「等身石像、爾生前是誰、吾死後是爾、截断死和生、爾吾空也耳、北山友松子並題」の文字を刻んでおいた。元禄十四年(一七○一)三月三日に不動明王像の下の石室中にこもり、読経し鐘を叩いた。その鐘の音が絶えたのが十五日だったので、人々はその日を以て命日としたという。
友松子には『増広医方口訣集』のほかに、『北山医按』『北山医話』『方考評議』『医方大成論抄』『纂言方考首書』などが知られている。(参考・大塚恭男『北山友松子』、中野操『大坂名医伝』)
09■ 岡本一抱
一抱は通称為竹、一得斎と号す。本姓は杉森氏。承応三年(一六五四)越前国福井において杉森信義の三男として出生(生年、出生地は異説が多い)。実兄は江戸文学を代表する近松門左衛門である。一抱は十六歳頃、織田長頼の侍医平井自安の養子になり、平井要安と称した。十八歳で後世家別派の味岡三伯に入門し、医学を学ぶ。三伯の師は饗庭東庵で、後世家別派を樹立した人である。
すなわち、一抱の学系は、曲直瀬道三-同玄朔-饗庭東庵‐味岡三伯につながる。すなわち、饗庭東庵の医学は道三、玄朔の李朱医学よりさかのぼり、劉完素の医学に根底をおいたものである。
三十二歳頃、師味岡三伯から如何なる理由によるのか破門され、また三十五歳頃には養家からも去ったのか岡本姓を名乗るようになる。それからまもなく法橋に叙せられている。没年は享保元年(一七一六)で、京都本圀寺に葬られた。戦時中の木谷蓬吟氏の調査では同寺に墓碣が存在していたが、戦後整理されたのか、不明になってしまった。子孫は京都に健在である。
一抱は近世医人中最大のブックメーカーであった。「自ら選述して彫刻せしむるの書一百二十余巻、録して末だ刊せざるの書若干也」と述べているように、著書は優に等身を凌駕する。好んで古医書の注釈を試み、諺解書が多い。あるとき兄の近松が一抱に「お前は無学のものが読んでもわかるような諺解を著わしているが、このようなことでは原典を読まずに諺解ばかりを読む医者が多くなり、人命を誤るおそれがあるから、やめたほうがよい」と忠告した。一抱は大いに悟るところがあって、これより以後、諺解を作ることをしなかったという。
代表的な著書は『和語本草綱目』『方意弁義』『医方大成論諺解』『三蔵弁解』『切要指南』などがある。
一抱の医学の根底は劉完素等の高遠難解なものだったが、彼が達し得た境地はこれを脱却して甚だ簡素淡明なものである。その著書をみると、湯液、鍼灸の二道に通暁した学術兼備の名医であり、また『北条時頼伝』を著した史学者でもあった。(参考・矢数圭堂『岡本一抱』、土井順一『岡本一抱子年譜』)
10■ 香月牛山
吉益東洞の医説があまねく天下に広がったとき、後世派で一人気焔を吐いたのが牛山である。牛山は通称啓益、名は則実(則真とする説もある)、号を牛山、貞庵、被髪翁と称した。筑前国遠賀郡植木の出身で、明暦二年(一六五六)香月家十六代重貞の次男として生まれた。その先祖は香月城主であったが、牛山より四代前の香月考清の代に小早川隆景に征せられ、植木邑におち野に下った。
牛山は若い頃貝原益軒から儒学を学び、また医を藩医鶴原玄益に学んで業とした。三十歳の時、豊前中津侯小笠原氏の侍医として禄を受け、十四年間さらに医学の研鑚に励んだ。当時の医学は古医方が擡頭し始めた頃であるが、一般には金元医学、特に李朱の医説が行われており、牛山も当然この医説を学んだ。特に牛山は李東垣の医説を奉じ、後に江戸中期の後世派の第一人者と称された。
牛山の医説は儒者、本草家としての貝原益軒の実証的研究方法の影響を多分に受けているものと思われる。元禄十二年(一六九九)四十四歳の時、中津侯を辞して京都に赴き医の門を張る。享保元年(一七一六)六十一歳の時、度重なる小倉侯小笠原氏の招聘により、小倉に住した。元文五年(一七四○)八十五歳の高齢で天寿を全うした。没年八十五歳は奇しくも師貝原益軒と同年配である。
牛山は李朱の医説を信奉した医家であるが、「中華の医書とて誤謬尠なからず、古人の説とて精確なるもののみにあらず」と自家の医説、特に自然観を述べた『螢雪余話』に誌しているごとく、自らの医療経験に基づき、他の後世派の医家が先人の論説を守株して自ら弁じないのを嘆いている。
牛山の医説は実際的経験の上にたって治病の腕を振ったが、その患者は高貴の方を多く対象にしたようで、その主とするところは温補剤であった。それはまた、元禄、享保の頃の人達の生活にもよくマッチしたのであろう。牛山は非常に多くの著書を残している。代表的なものは『牛山方考』『牛山活套』『婦人寿草』『老人必用養草』などがあるが、著書のほとんどは仮名混り文で、大衆啓蒙に務めたことが感じられる。(参考・難波恒雄『香月牛山先生の事蹟と家譜』)
11■ 後藤艮山
艮山は古方派と呼ばれる江戸中期に興った医学革新運動の先駆者であった。ただし、古方派という呼称は彼の門人である香川修庵や山脇東洋の代になって初めて自覚をもって使われたのであって、艮山自身には革新の鼻祖というような大形な構えはまったく認められない。
艮山は名を達、字は有成、俗称左一郎、また養庵とも号した。万治二年(一六五九)江戸常盤橋辺の僑居で生まれた。幼時より聡明で、少年の頃より学問を好み、林祭酒のもとで経学を学び、さらに牧村ト寿に医学を学んだが、その頃すでに従前行われていた医学に対する疑惑の念が生じていたという。
二十七歳の時、江戸から京都に移り、相国寺西の室町に居を定めた。名を養達と改め医師として開業。その後、住居を狩野街に移して養庵と号し、次第に医名が高くなったので禁門前の正親町に移り、ここを終生の居とした。艮山は享保十八年(一七三三)江州伊吹山に登ったが、その旅行中に膈噫にかかり没した。享年七十五歳。千本連台寺中普門院に葬られた。
艮山の門人は二百人を超えた。中でも香川修庵、山脇東洋らが高弟として有名である。
艮山について特筆すべきは、従来の医師がおおむね髪を剃り、僧形となり僧衣を着け、僧官を受けていたのに抵抗して、艮山は髪を束ね、平服を着用したことであった。世人はこれを後藤流と呼んで、多くの医家がこれに追従し、形の上でも医業が仏教から独立し、医師の社会的地位確立の原動力になった。
吉益東洞の万病一毒説とともに、目本人の手になった病因論として目本医学史上に不滅の光を放っているのは〃一気留滞説〃である。つまり、百病は一気の留滞に生ずると主張し、順気をもって治療の綱要とした。艮山は古方派の祖とされる人であるが、必ずしも傷寒論のみを金科玉条としたわけではなかった。広く他の書物やあるいは民間療法の中から、実効のあるものを採用した。また、灸、熊胆、温泉を賞用したので、世人は艮山を〃湯熊灸庵〃と呼んだ。艮山には著述らしいものはほとんどなく、『師説筆記』『東洋洛語』なども門人の編著と考えられる。(参考・大塚恭男『東洋医学入門』)
12■ 蘆川桂洲
蘆川桂洲は『病名彙解』の著者として知られるが、桂洲その人について分かっていることは極めてとぼしい。生年、没年等も全く知られていないが、奈須恒徳の『蓼俊志』に次のような記載がある。
「元禄中蘆川桂洲は彦根の医なり。著書多し。病名彙解今人その誤あるを証すれど、容易の著述にあらず、甚だ初学に便なり。食用簡便亦坐右に置くべき書なり。当時行われて掃門頭殿より三百石を賜うという。詩賦にも心を寄せたりと見えて錦繍襄という小本、元禄五年の刻本あり、詩筵に携うるに便なり。其胤今に存す、艸山某という」とある
彼の名は正柳、字は道安、通称は正立、桂洲と号した。著した医書として『病名彙解』『袖珍医便大成』『片玉本草』『煎炙食用簡便』がある。これらのほか、儒書として『孝経大義詳解』があるといわれる。彼の著述の多くが貞享・元禄の間にされているので、その時代の人であると思われる。
元禄三年(一六九〇)に出版された『袷珍医便大成』はいわゆる通俗書ではあるが、凡例の第一に「此書至って俗語を以て書しるす事片郷の野巫医(現在でいう薮医のこと)或は医療に志ある俗家の其の理を知りやすからん事を欲してなり。医学の心得薬調剤の次第は一溪翁の切紙又は老医の証語を以て逐一に書つくる所なり」と述べ、曲直瀬道三の流儀すなわち後世派であることを述べている。凡例の終りに「悉く妙方を記して世に伝うるものなり。これを用いば必ず余の言の誤らぎることを知るべきのみ」と述べ、相当な自信を示している。また桂洲は儒教の著書があることで分かるように儒教をよく学んでいて、医学の根底に儒教をすえていたことが知られる。
『病名彙解』は貞享三年(一六八六)に著されたとされ、病名をいろは順に並べ、解説をほどこしてあり、収められた病名は全部で一八二二の多きに達する。そして『外科正宗』『万病回春』『医学入門』『素問』『医学綱目』『病原候論』など大部分は後世派の著書から引用した解説を述べている。桂洲を代表する自信作といえよう。(参考・室賀昭三『蘆川桂洲』、安西安周『日本儒医研究』)
13■ 松岡恕庵
松岡恕庵は稲生若水門の逸材として、その学風を継承発展させ、その門から小野蘭山を輩出して、わが国本草学の形成に功績のあった人として知られる。
恕庵は名を玄達、字は成章、通称は恕庵、恰顔斉・苟完居と号し、填鈴翁の別号もある。
寛文八年(一六六八)京都に生まれた。経学を山崎闇斎に、のち伊藤仁斎に学び、詩経に出てくる動植物の名の釈明に苦しみ、稲生若水の門に入って本草を修めた。儒医として身を立てたというが、医学の学統は知られていない。恕庵は享保六年(一七二一)幕府の召に応じて、江戸に下った。これは幕府が国産薬種(和薬)の調査、増産政策の一環として和薬の実状調査を急いでおり、実地採薬と表裏一体をなすものとして、恕庵の学識が求められたものとみられる。
恕庵は延享元年(一七四四)から『本草綱目』の講義を開始し、水部よりはじめて二年後の延享三年(一七四六)に至って禽部の半ばまで達したとき病に倒れ、病没した。享年七十九歳であった。洛西の妙心寺塔頭実相院に葬られたが、大正元年妙心寺塔頭光圀院に移された。
恕庵の著作は数多く、儒学、神道関係のものを除いても五十編以上にのぼる。しかし、刊行されたものはその半ばにも達せず、生前上梓の『用薬須知』のほかは、遺稿を門人らが上梓したものである。もっとも生前、中国書を校刻したものに『救荒本草』がある。
食療関係の著作では『食療正要』があり、遺稿を嗣子の松岡典が校正し、刊行している。また、甘藷に関する和漢の諸説を引き、その効用を述べた『蕃藷録』がある。恕庵の代表著書である『用薬須知』は正徳二年(一七一二)の自叙があり、この年が一応の成稿年とみられる。享保十一年(一七二六)に刊行された。この書は、日用薬物三二○種について薬物ごとに臨床医に役立つ撰品の知識が簡潔に述べられている。恕庵の没後、遺稿を整理編集して『用薬須知後編』『用薬須知続編』が刊行された。(参考・宗田一『松岡恕庵』)
14■ 香川修庵
「儒医一本論」という有名な説を残した香川修庵は、天和三年(一六八三)播州姫路に生まれた。
十八歳のとき京都に出て、医学を後藤艮山に学び、儒学を伊藤仁斎に学んだ。修学五年、彼は儒者になることは父の遺志でないと考え、医家のコースを選ぶ決心をした。彼はよく勉強し、古今の医籍をほとんど渉猟しつくしたが、古今の医籍、特に素問、霊枢、難経などに書かれてあることは実際医療に役立たず、「邪説」ときめつけた。そして、「異端邪説で己を修め人を治めて、たとえ岐伯、扁鵲ほどの名医になったとしても、そんなことは自分の望みではない」とまでいうのである。また、張仲景の傷寒論の医説は、正に信ずべきことに至ったが、惜しむらくはその理論は素問より出ていて、陰陽者流が混在し、一二の誤謬妄説もある。まことに千載の一大遺憾である。そのことから修庵は、聖道と医術は一本であることを唱えたのである。
もともと修庵が医学を志したのは、聖賢の教えはつまるところ身を修めることが基本であり、身を修めるには無病ということが肝要である。病身では忠孝の道もなすことができないし、ましてや道を人に教えることなどできない、ということにあった。修庵にとっては、人生の目標は聖賢の道ひとすじであったわけである。そして、修庵は医の根本基盤を儒においた。王道たる日常の養も、権道たる万疴の治も、孔子、孟子の数言の中にありと主張したのである。
修庵の主著は『一本堂行余医言』と『一本堂薬選』である。『行余医言』は修庵が自己の医術、医説を集大成した一つの医療全書である。同書の巻五は精神神経疾患を述べてあるが、当時の精神病学の書としては、世界最高の水準にあったと考えられる。
『薬選』は親試実験により修庵が認めた多くの薬物その他の効能や、薬物の鑑別などを集積したものである。宝暦五年(一七五五)修庵は播州へ行き、京への帰途、丹波で死去した。享年七十三歳。(参考・山田光胤『香川修庵』、京都府医師会編『京都の医学史』)
15■ 賀川玄悦
賀川流産科の鼻祖であり、わが国近代産科学の基礎を築いたのが賀川玄悦である。玄悦は元禄十三年(一七○○)江州彦根で生まれた。一名を光森、字は子玄と称した。父は長高といい、槍術をもって名あり代々彦根侯に仕えた。玄悦は庶子で禄をつぐことができないため、七歳で家を出て母の実家に養われて賀川姓を名のった。玄悦は農をきらい、鍼灸・按摩の術を学んだ。壮年に及んでさらに医学を学ぶため故郷を去って、京都に行き一貫町に住み、昼は古鉄銅器を商い、夜は鍼灸を施して生活の糧を得ながら独学で古医方を学び産科を独習している。この間に玄悦は按針十二法を案出している。この一貫町には、以後八代玄道が徳島に移住する明治二年まで約百年余り、ずっと住みついている。
玄悦の多くの独創的業績のうち、最たるものは正常胎位の発見である。古来、洋の東西を問わず胎児は子宮内では頭を上に臀部を下にして位置しており、陣痛が始まると一回転して頭が下に向かうと考えられていた。これが誤りであり、妊娠中期頃から頭が下に位置するのが正常であることを初めて唱えたのは、西洋では米国の産科医ウイリアム・スメリーであり、日本では玄悦であった。二人は何の関連もなく一七五○年(寛延三)前後にこのことを発見したのである。
玄悦は『産論』にこのことを記しているが、当時大方の人々はこれを読んでも信用せず、杉田玄白でさえ後でスメリーの『解剖図譜』をみて、やっと玄悦の説が正しかったことを知ったくらいである。
玄悦の旺盛な実証精神は数々の新発見につらなり、回生術をはじめ十一種の治術を発見、創案した。また『産論』の中で、古来広く慣用されてきた産椅や腹帯の害を力説して、旧来の悪習の廃止を唱えた。玄悦の業績はすべて目で確認し、手指で試みた結果であり、推論や想像は一つもない。
玄悦不朽の名著『産論』は、学がなく文章が幼稚であった玄悦のために、大儒者皆川淇園が筆をとったものである。時に玄悦六十七歳であった。安永六年(一七七七)七十八歳で没した。(参考・杉立義一『賀川玄悦と賀川流産科』、京都府医師会編『京都の医学史』)
16■ 賀川玄迪
賀川玄迪は、養父玄悦の学業をよく補って賀川流産科を盛り立てた。玄迪は一名義迪、字は子啓、出羽国(秋田県)横堀において医師岡本玄適を父として、元文四年(一七三九)に生まれた。
二十歳の時、京都に上り、玄悦に師事した。彼は謹厳実直であり、玄悦の教えに従い刻苦勉学に励んだ。玄悦は娘さのを玄迪にめあわせて、家を嗣がせた。玄迪は努力して『産論』の不備を補い、新たに得た所説と懐孕図三十二図を付して、安永四年(一七七五)に『産論翼』二巻を刊行した。これは玄迪が入門して十七年目であり、この時養父玄悦は七十六歳でまだ健在であったが、二年後には亡くなった。
ところが、玄迪もその二年後の安永八年(一七七九)に四十一歳で早逝してしまった。そして、玄悦と同じ下京区の玉樹寺前庭に葬られたのである。
玄迪の没後、男子がないため甥にあたる子全が養子となって家業を継いだ。以後代々一貫町松原下ルに住んで産科を業とし、塾を済生館と称して多くの門弟を養成した。賀川流産科は、わが国の風土の中で発展して、全国の産科医のうち、八~九割の者が賀川流に属するといわれるほど隆盛をきわめたのである。
さて、『産論翼』の内容をみると、序文を後年幕府の儒官となり寛政三博士の一人にがぞえられた柴野栗山が書いている。その中で栗山は、自分は方伎の書を解することはできない。しかし子玄翁(玄悦)の人となりをみるとき、その言の欺かないことを信ずる。したがって子玄の術と学を受けついで篤信勤苦する子啓(玄迪)について、翁の道を学ぶべきであると激賞している。
『産論』と『産論翼』は一体のものであり、『産論』は『産論翼』を得てはじめて完全となる。安永四年に『産論翼』がはじめて刊行されたあと、両者は合体して刊行される場含が多い。
嘉永六年(一八五三)賀川家八代子達は『論』と『翼』との校正版を上梓刊行している。(参考・杉立義一『賀川玄悦と賀川流産科より』)
17■ 内藤希哲
江戸中期、五経一貫を体系づけた天才医学者内藤希哲は僅か三十五歳で夭折した。
希哲は字を師道と称し、通称は泉庵、元禄十四年(一七○一)に、信州松本村に生まれた。幼少より医学医術が好きで、同郷の清水先生に医学を学び、医方が上達するようになってからは、専ら張仲景に志を傾倒し、傷寒雑病論を手にして、暗誦するまで味読し、その奥儀に精通するに至った。
次に傷寒論研究家たちの諸書を読んだところ、魏晋以降の医書に次第に疑問を感じるようになったが、内経、難経を反復熟読したところ、理解を深めることができた。希哲は遊学の志があったので、ここに至って江戸に赴き、医業を営むこと三年。その間ますます古典を明覈にし、臨床に精通した。すなわち、古典によって臨床を正し、臨床によって古典を会得した。古典と臨床とを互いに検覈してみると、表裏はピタリと合い違うことはなかった。そして魏・晋以降の治療家は医経と称す古典の内容がわからなくなり、そのために傷寒雑病論を学んでも、その道を会得することのできない事実を知ったのである。
ここにおいて希哲は「奮然として励み、仲景の真の道を修める」ことを生涯の仕事として、著述を刊行した。その一つが名著『医経解惑論』である。
希哲は『医経解惑論』の校正を大儒者太宰春台に依頼し、春台もまた巻頭に序文をのせて、その顛末を記している。希哲は草稿が完全にできていない享保二十年(一七三五)突然病気で亡くなったという。
春台は「ああ哀しいことである。特に師道(希哲)豪傑、秀でて実らざるを借しむ」と、業半ばに実らずして往った若き天才医学者希哲の生涯を愛惜している。希哲の死後四十一年、息子、弟子達の手によって同書は刊行された。また、『医経解惑論』の各論とでもいうべき、『傷寒雑病論類編』も門人たちの手によって補足校正され、実に希哲死後八十四年を経過して刊行された。
希哲の著書は江戸時代数多い傷寒論、金匱要略の研究書の中でも、最も早く、しかも先見をそなえた書であるといえるだろう。(参考・寺師睦宗『五経一貫を体系づけた若き医伯内藤希哲』)
18■ 吉益東洞
古方派の大成者であり、「万病一毒説」をとなえ、医界をゆさぶった革命の医傑こそ吉益東洞である。東洞は名を為則、字を公言、通称を周助といった。東洞はその号である。父は畠山重宗、母は中野花で、元禄十五年(一七○二)安芸(広島県)に生まれた。吉益家はもと畠山姓であったが、曽祖父が戦乱を避けて一族の外科医吉益半笑斎のもとに身を寄せて吉益姓を名のり、その子政光の代に安芸に移り、姓を再び畠山に復したのであった。東洞の父道庵は医を業とした。
十九歳の時医に志し、祖父の門人に医を学んだが、のち独力で張仲景とその著『傷寒論』のみを師表として研鑚につとめた。三十七歳の時、大志を抱いて京にのぼり、姓を吉益と改めた。四十四歳の時、山脇東洋を知り、以後順調に医業も伸び、東洞院に移って門戸を張った。東洞の号はこれに由来する。
東洞の医説の主軸となるものは、〃万病一毒説〃と〃眼に見えぬものは言わぬ〃の二つの柱である。万病一毒説は、生体になんらかの理由で後天的に生じた毒が疾病の原因であり、この毒を毒薬で攻めて駆除すれば外邪も侵入することができないといい、毒を去ることが万病を根治する必須条件であるとした。また、東洞は眼に見えるもの、手でつかむことのできるものでなければ相手にしないという実証主義に立っていたから、この体内の毒も、眼で見、手でふれるものでなければならないのである。そこで、体内に毒があれば、その証拠が体表に現われ、その多くは腹診によって確かめることができるとした。これにより、傷寒論系の腹診が発達をとげた。
著書に『類聚方』『方極』『薬徴』『方機』『医断』などがある。『類聚方』と『方極』は傷寒論、金匱要略中の主要な薬方を選び、その適応がきわめて即物的な形で与えられ、陰陽五行説などの素養がなくてもただちに便用することができるようにした。『薬徴』は、東洞が最も力を尽くした書で、後世に影響を与えた点では、この書の右に出るものはない。東洞は安永二年(一七七三)七十二歳で没し、東福寺荘厳院に葬られた。(参考・大塚敬節『近世前期の医学』、大塚恭男『東洋医学入門』)
19■ 吉益南涯
吉益南涯は、父東洞の万病一毒説を敷衍して氣血水を唱え、今日まで漢方の代表的病理思想として伝えられている。南涯は東洞の長男で、寛延三年(一七五〇)京都で産まれた。名を猷、字は修夫、初め謙斎と号し、後に南涯と改めた。幼名は大助、後に周助といった。
南涯は幼い時から容姿端厳淳厚で、成人のごとき風格があった。父の道を継承する志があり、古方による疾医の道を父東洞より享け、日夜精研して怠らず、大いに進歩するところがあった。年二十四の時、東洞が死去し、遺業を嗣いだ。そして二人の弟、東岳と羸斎を養育しながらよく家を修め、多くの門人を薫育し、一門は大いに隆盛をきわめた。京都の大火で大坂に転居し、四年後、四十三歳の時、大坂の寓居を弟に譲って、京都に居宅を構えた。その頃、気血水説を創唱し、これによって傷寒論を解釈した。この新説は衆医の関心を集め、仲景の薬方をこれによって説明しようと企て、『気血水薬徴』を著わした。さらに『観證弁疑』『方庸』等により、その医説を確定的なものとした。
南涯が気血水説を唱えたのは、父東洞の行きすぎた説を正すためであった。「毒によって病の毒を改める」過激な東洞の学説に修正を加え、治療法にも不備を補いながら、東洞の「直接の経験を基礎とし、事実に即した医学」の確立につとめることは、吉益一統をひきいる重責をになうべく運命づけられた南涯の帰結であった。
南涯は理論ばかりでなく、優れた臨床家でもあり、けっして親の七光りとか匙のまわらぬ学医でなかったのは、『成蹟録』や『続建殊録』などの治験録をみても明らかである。また、南涯がいかに熱心に勉学を続けたかについて、外出するのはただ患者の往診にいくだけで、遊興の巷に足を向けることは一度もなかった。家にあれば子弟の教育につとめ、弟子に対していない時は必ず古書を読み返しており、方術の研究に余念がなかったという。
南涯は文化十年(一八一三)投した。享年六十四。(参考・松田邦夫『吉益南涯』)
20■ 山脇東洋
宝暦四年(一七五四)京都六角獄舎において刑屍体の解剖に立ち合い、実見したところを記録して、『蔵志』として世に問うた医師がいた。それが山脇東洋で、日本で初めて〃観臓〃を行ったのである。
東洋は本名を尚徳、字を玄飛または子樹といい、初め移山と号したが、のちに東洋と改めた。通称は道作である。父は丹波亀山の人清水立安、母は駒井氏の女で、宝永二年(一七○五)京都に生まれる。実父清水立安は後に東洋の養父となる山脇玄脩の門に入り、医学を学んだ。東洋は少年の頃から秀才の誉が高く、二十一歳の時、乞われて山脇玄脩の養子となる。翌年、玄脩が没したため、その遣跡を継いでいる。享保十四年(一七二九)二十五歳で法眼に叙せられ、養寿院と号す。
東洋の医学における最初の師は、いうまでもなく養父の山脇玄脩である。そして、その学統は曲直瀬玄朔、山脇玄心、山脇玄脩と連なる。東洋に大きな影響を及ぼしたいま一人の師は後藤艮山である。
つまり、東洋は李朱医学を宗とする後世派の学問から出発して、のちに師の後藤艮山の医業を継承、発展させて、実証主義にもとづいた古方派医学を確立したのである。
東洋が臨床の唯一無二の聖典と仰いだのは、張仲景の傷寒雑病論であった。その理由の一つには、著者張仲景の自序にみられる「勤めて古訓を求め、博く衆方を采る」という姿勢であった。
宝暦四年の東洋による観臓は、当時の医学界に波紋を投じた。その一つは、人間の体内を正しく埋解するためには、人体の解剖が必要不可欠であるということ、自らの眼でなんでも確めてみる親試実験主義の方向がはっきりとここで確立されたということである。二つめは、西洋の解割書が人体の実際と合致しており、すぐれていることが確かめられ、後年の西洋医学の導入一般につながったことである。
そのほか、東洋は唐代の代表的医書である王燾の『外台秘要』の翻刻、永富独嘯庵などのすぐれた門人を養成するといった業績を残している。宝暦十二年(一七六二)五十八歳で没した。(参考・大塚恭男『東洋医学入門』、森谷尅久『京医師の歴史』)
21■ 山脇東門
東門は日本の解剖学の父山脇東洋の二男として、元文元年(一七三六)京都で生まれた(一説に一七三二年生まれ)。名を玄侃、字を大鋳、東門または方学居士と号す。十七歳の時、父東洋の命で永富独嘯庵とともに越前武生の奥村良筑のもとで吐方を学ぶ。宝暦十二年(一七六二)遺跡を継ぎ、明和三年(一七六大)法眼に叙す。明和八年(一七七一)女屍を解剖し、『玉砕臓図』と名付けた図譜を作った。その後も男女一体を解剖している。そして、医学修得に解剖知識の必要なることをいっそう痛感し、盛んにそれを力説した。東門の子東海もしばしば人体解剖に携わり、山脇家は京都における鮮剖の宗家のような観を呈した。天明二年(一七八二)四十七歳(一説に五十一歳)で病に逝く。
東門は汗・吐・下の古医方三法を研究し、また刺絡の法を唱導している。刺絡の法は、吉雄耕牛から学び、三陵針を用いて、瘀血をとることをすすめたのが始まりである。
著書には『東門随筆』がある。当時の医界には、古方家、後世家という両派があり、それぞれ自派の学統を主張し、対立していた。東門は両派について『東門随筆』の中で、次の如く論じている。
「古方家と称するものはその人上手ならねば狂人の刃を操ると同じく、恐ろしきことなり」「後世家と称する治療はこれ全く回春流にて回春を知らぬなり」と断じ、古方家の行き過ぎも後世家の温補もともに「人命を誤り、病人の死するに至りては平峻の違いにて拙劣なこと同じ」であると、両派の医風を激しく攻撃している。
そこで結論として、両派の長所を折衷し、効果のあるものは民間薬でも何でも用いるべきであると主張している。また、「病に古今なければ、方に古今なし」「すべての治療は根本を捜索して、その筋如何んと精細に弁明して後、投薬すべきなり。斯の如くして功を積めば精妙になりて良医と称せらるべし」「卒倒卒死の者は、多く以前に肩のこるものなり」「我を出すと成就せず」など、貴重な片言隻句が散りばめられている。(参考・寺師睦宗『山脇東門』、京都府医師会編「京都の医学史」)
22■ 北尾春圃
美濃大垣の出身である北尾春圃は、江戸中期に登場した医家で、特に脈診に秀でていたと伝えられる。中川修亭は自著『医方新古弁』で、春圃を後世派の大家だと推賞している。北尾春圃は詳伝が長らく不明であったが近年、郷土史家の安福彦七氏や安井広迪氏らによって実像がかなりあきらかになってきた。
春圃は当壮庵と号し、また松隠とも号す。医家玄甫を父とし、万治元年(一六五八)、美濃国多芸郡室原村の産で、ここで医業を営む一方、大垣藩(戸田侯)に仕え、一生この地にとどまり、生涯を終えた。
春圃は田代三喜の伝を某より受けており、その後朝鮮通信使が来朝し、大垣城下に宿をとった際、春圃と出逢い、通信使が「その人の医術におけるや精密妙機、言語のよく尽くすところにあらず」と称賛したという。仙台侯がその話を耳にして、春圃を五百石で招かんとした。大垣侯がそれを聞いて驚き、他国へ行くのを惜しんで、二十人扶持を賜い、勤仕なくして大垣に留めたという。別伝では、仙台侯が召抱えんとしたとき、春圃は辞して、「われ世々この国に住し、国恩を受くること久し。たとえ出身たるも、あに父母の邦を去らんや」と述べたともいう。
朝鮮通信史の挿話は、正徳元年(一七一一)の来朝の際のことであり、医員奇斗文との間に交された問答は『桑韓医談』と題して、同三年に刊行されている。春圃は寛保元年(一七四一)に没した。享年八十三歳、墓所は室原・福源寺にある。春園の嗣子も医家となり、その後も医を嗣ぐものが代々続いたというが、『大垣市史』によると、「第五代春圃(北尾信昌)は明治二十一年病没し、男信吉後を継げり」とあって、その後は不明である。
春圃の医術は『提耳談』『当壮庵家方口解』などの著者によって知ることができる。著書を見るがぎり、春圃の医術は曲直瀬流を基礎にして発展したものであり、とくに岡本玄冶の影響が濃いように思われる。『提耳談』は、没後、文化四年(一八○七)に刊行された。(参考・矢数圭堂『北尾春圃』、安井広迪『美濃大垣の名医北尾春圃』)
23■ 中西深斎
京都東山のふもと東福寺荘厳院には、吉益東洞と一族の墓がある。その吉益家の墓域に相対して東洞の高弟中西深斎とその一族の墓が、師に陪葬された形で眠っている。
深斎は享保九年(一七二四)京都に生まれた。名は惟忠、字は子文、通称主馬、深斎と号した。もとは伊賀十八族の一家であったが、曽祖父以後京都に住んだ。深斎は若い時から学を好み、初め儒学を志して江戸に留学し、数年を経て京都に帰った時に、吉益東洞が古医方を唱うるを聞いて、志をひるがえし、医学の道に入り、東洞に師事した。時に年三十八の壮年であった。
深斎がいかに篤学の士であったかは、東洞説を解説した『医断』が門下鶴田元逸によって計画され、元逸が著述の業半ばにして早逝した時、これに加筆訂正して刊行したことからも察せられる。
東洞の『方極』が世に出た時、赤松愿が書を寄せて難詰したので、東洞は深斎をして代って答えせしめようとした。そこで深斎は、先生の書は難解で世の誤解をまねくおそれがあるとし、もっと分かりやすい一書を著述しようと考えた。それには『傷寒論』のよき註解書が必要であると考慮した。
そこで『傷寒論』を註解し、師道を開きあらわさんと心魂をうちこみ、以後は門を閉じ、客を謝し、一意攻究すること三十年近くに及んだ。人々は「寂々寥々中西の居、年々歳々傷寒の書」と評したが、ついに『傷寒論弁正』『傷寒名数解』を著述した。『傷寒論』の真価はこの註解書により国内に伝播されて、篤学の医家深斎の名は高く世評に上がったのである。
近畿の諸藩は厚礼をもって迎えようとしたが、深斎は固辞して就かなかった。晩年は多病となったが、常にしとねにあって、目中は門下生に古医方の方論を講受することを怠らなかった。夜は和田東郭などと医事を談じるのを楽しみとした。
享和三年(一八○三)死去、享年八十歳であった。子息鷹山が家業を嗣ぎ、実父の名を恥ずかしめなかった。(参考・寺師睦宗『中西深斎』、京都府医師会編『京都の医学史』)
24■ 福井楓亭
江戸後期、御典医として盛名をなした福井家で、長子榕亭とともに最も名を成したのが楓亭である。楓亭は名を輗、立啓、啓発、字は大車、通称柳介、楓亭と号した。享保十年(一七二五)京都に生まれた(一説に奈良)。
楓亭は祖父以来廃絶していた医業の再興を思い立ち、菅隆伯に医を学んだ。ただ、家が貧しくて書物も充分買えなかったので、人に借りて写し読んだということである。
京都で医業を開いたのちは、薬種商と呉服商を呼び、薬は医療の根幹であり、人命に関するところであるから、いつも上等のものを持参するように、二級品以下を持参するな。値の安い薬を使うと、いやしい心をおこして粗薬で効きめがなく、人命を誤ることがある。反対に、衣服は薬とちがって美麗なものは持参するな。華奢の習を生じ、わが志を損うことがあると申し渡した。
寛政二年(一七九○)江戸に召された。寄合格二百俵に列せられ、医学館の前身である躋寿館で二年間『霊枢』を講じた。その間、特に内直を命ぜられ、製薬所の監となったが、寛政四年(一七九二)江戸で没した。亨年六十八歳。品川東海寺長松院に葬られた。
当時、京都は名医の供給源であり、楓亭のように招かれて東向するのを東下りといった。野間玄琢、小野蘭山、百々漢陰、荻野元凱らはいずれもその頃東下りした医家たちである。
楓亭の医学は折衷派に属している。楓亭には多くの創方があるが、疝気八味方はその代表的なものである。また痿症方も浅田宗伯の『勿誤方函口訣』に「此の方は福井楓享の経験にて・・・」とあって、楓亭の秘方であったことが伺える。また儒学に深く、詩文もよくし、伊藤東涯ら多くの文人と交遊している。
著書に『方読弁解』『集験良方』『瀕湖脈解』『病因考』『証治弁義』など多数がある。楓亭の長子が福井丹波守で知られる榕亭で、当代一流の流行医となり、以後も福井晋、福井貞憲と名医が出た。(参考・矢数圭堂『福井楓亭』、山田重正『典医の歴史』)
25■ 水富独嘯庵
漢方中興の医傑吉益東洞をして〃陰として一敵国の如きものはこれ独嘯庵か、吾れ死せば将にこの人を以て海内医流の冠冕となすべし〃といわしめた永富独嘯庵の生涯は、僅か三十有五年の短いものであった。しかし、波乱万丈に富み、国手として古医道に、西洋医学に、儒学に、はたまた禅に、若き情熱と卓越な見識を示した彼の名声は、日本医学史上に燦然と輝いている。
独嘯庵は名を鳳介、字を朝陽と称し、長門国(山口県)豊浦に享保十七年(一七三二)に生まれた。幼年時代より稀代の神童として郷党の間に知られた。十三歳の時、赤間関の医師永富友庵の養子となった。十四歳の時、荻生徂徠の高弟山県周南に鐘愛せられ、周南の紹介で江戸に赴き、服部南郭、大宰春台の教えを受けるとともに、幕府の奥医師井上元昌に師事している。然るに彼は心を儒学にむけ、腐敗している医界に憤激し、医術をきらい、赤間に帰郷した。しかし、医は仁術なりに徹している名医、香川修庵、山脇東洋なる者が都にいると聞いてじっとしておれなくなり、十九歳の時、京都に出た。
山脇東洋の塾に入門し、古医方たる漢方医学と近代医学の解剖学を修得し、さらに東洋の命を受けて越前武生の奥村良筑に吐方を学んだ。その後、長崎で吉雄耕牛の門を叩き斬新な西洋医説を聞き、三十一歳で大坂に来て業を開いた。そして、『吐方考』『嚢語』『漫遊雑記』などの名著を矢つぎ早やに出版した。
医界ではよく「鬼手仏心」という言葉を使うが、独嘯庵の言行には歯に衣きせず、自由奔放、堂々卒直に所心を述べながら、その中に大きな人間愛を感ずる「鬼語仏心」と「医匠の心」ともいうべき名利の念を絶った自然の心情とが、一貫して流れている。
また、当時ようやく人屍解剖の始まったばかりの日本において、早くも病埋解剖の必要なこと、それの医学に益するところの多い点に着眼している。時流を抜いた識見の高さ、洞察の鋭さは驚嘆のほかない。残念ながら生来の蒲柳の質と無理がたたって、寒疝(泌尿器系の結核性疾患)を病み、明和三年(一七六六)世を去った。(参考・寺師睦宗『若き情熱の国手、永富独嘯庵』、中野操『大坂名医伝』)
26■ 村井琴山
村井琴山は吉益東洞門中、第一人者と称せられた。琴山は村井見朴の長男として享保十八年(一七三三)肥後熊本の古町新鍛冶屋町に生まれた。名は杶、字は大年、通称は椿寿、琴山はその号である。別に原診館、六清真人、清福道人とも称した。豪傑肌の人で、細事に拘泥することなく、容貌もまた魁偉で、口唇がすこぶる厚かったと伝えられる。
琴山の父見朴は熊本医学校再春館教授をし、医家としても著名であった。しかし不幸にも眼を患って失明し、琴山はよく父を助けて再春館の講席に上り、執読を助けたという。ところで見朴は香川修庵に私淑しており、古医方への親炙をうかがわせるが、このことがおそらく琴山の後年の東洞への傾倒と無関係であるまいと思われる。
見朴没後、琴山は助講に推されたが助講の一人と説が合わず、固辞して再春館を去り、初め山脇東洋に、そして遂に終生の師吉益東洞にめぐり合うことになる。京都で東洞を訪ねて、古疾医の道を拝聴して琴山は、「十数年の一大疑城釈然として氷の日を得て解くるがごとし」と感激している。
琴山が東洞のもとで直接に指導を受けたのは数力月間で、その後帰国し、数年間は熊本で医業に、また教育に従事していたが、明和六年(一七六九)に再び上京して東洞に師事した。
東洞はよほど琴山の才能を高く評価していたのか、琴山が京都を去る時は自ら淀口まで送り、「医道世論を指導する、関より西は君に一任して不安なし」との激励の辞を与えたという。
帰郷後、九州各地に傷寒論を説いて廻ったが、これは医療の啓蒙運動であった。肥後藩は琴山を医官待遇にあげ、俸禄百石を給した。文化十二年(一八一五)死去、八十三歳であった。
著書に『医道二千年眼目編』『和方一万方』など多数がある。前著は東洞説の補強、立証を主旨としたもので、壮大な東洞讃美の書である。後著は民間薬の集成としてきわめて貴重なもので、実用的な面からも、民俗学的な資料としても注目に値する。(参考・大塚恭男『村井琴山』)
27■ 津田玄仙
天明から文化年間にかけて、上総(干葉県)の片田舎に名医と崇敬された医家がいた。それが津田玄仙である。玄仙は元文二年(一七三七)岩代国(福島県)桑折村に生まれた。
玄仙は名を兼詮、号を積山と称し、また玄僊とも書く。後に田村家に入り、田村玄仙といった。津田氏は代々奥州白河藩松平越中守の待医で、奥羽の間に名が聞こえていたが、父津田玄琳はなぜか辞職して白河を去り、岩代国桑折村に隠退した。玄仙は医業を家庭で学び、やや年長になってから水戸に遊学し、医業を芦田松意に学び、さらに京都で饗庭道庵を師匠にして、その秘伝を受け、久しい間京都大坂に居た。後に江戸に来て開業したが、その治療は好評で、また医術を学ぼうとする人も多かった。それが如何なる理由なのか、上総の片すみの馬籠(現在は木更津市に編入)に引っ込んだ。
この地に享保時代から、田村という医家があった。玄仙が馬籠に来て医業の盛名が上がっている頃、田村家に後継者がなくなり、玄仙が養嗣として迎えられた。先人の記載に、玄仙は長身肥大で、音声は鐘の鳴るようであり、威厳があってしかも温容で、誠意をもって人に接したので、誰も敬服、心酔するばかりであった。また、病家への往診にはいつも牛にのって出かけ、書物を牛の角に引っかけて読みながら行ったという。
この馬籠時代に、玄仙は次々と名著を残す。『療治茶談』『療治経験筆記』などがそれである。とりわけ『茶談』は日常の臨床経験による貴重な口訳集録で、刊本で広くゆきわたったので、患者は門前市をなし、門人も百有余人あって、五十余州にわたったという。玄仙は文化六年(一八○九)没した。行年七十三歳。墓は現在も子孫の田村家の家敷内にある。
玄仙の師、饗庭道庵の経歴はよくわかっていないが、専ら臨床経験によって処方を運用しようとする医家であったと考えられている。玄仙はその医風を継いで、補中益気湯をはじめとして、実際の臨床に役立つ医術をみがき、広めていった。(参考・藤井美樹『田村(津田)玄仙』、鶴岡節雄『名医田村玄仙』)
28■ 目黒道琢
目黒道琢は近世日本医学における考証学派を興した最重要人物である。道琢の墳墓は牛込市谷月桂寺に存在する。柳沢吉保などの名墓も残る大きな由緒ある寺である。
多紀元簡撰の墓碑文によると、道琢は諱を尚忠、字を恕公、あるいは道琢と称し、飯溪と号した。姓は目黒氏で、奥州会津の人である。若くして江戸に出て、医術を行った。道琢の治療はしばしば奇効を奏したので、江戸の人々は道琢を扁鵲の生まれかわりと評したほどであった。
道琢の学究姿勢は実に熱心そのもので、その勤勉ぶりは老いて少しも衰えることはなかった。典籍類はことごとく奥義を究めたが、とりわけ校勘学には卓越していた。明和二年(一七六五)医学館が創建されたとき、道琢は講師陣の一人として招かれた。道琢は医学館の創建時から医経を講義すること三十四年間、一年として休講したことがなかった。惜しいことに、寛政十年(一七九八)病没した。
道琢は会津野老沢の村の長、目黒伊右衛門の二男で、幼少から神童と注目された。成人して憤然と発奮し、「どうしてこの私に、百姓と同じように農具をとって一生田畑を耕し、老いさらばえてこの僻地に骨を埋めることなどできようぞ!」といい、笈を荷って江戸に来たとある。
道琢の生年・享年については異説があるが、目黒家に伝わる家系図では元文四年(一七三九)三月十日生まれとなっており、没年は寛政十年(一七九八)八月三十日で享年六十歳となっており、これがほぼ確定的な生没年と考えられる。
道琢の著書で代表的なものは『餐英館療治雑話』『驪家医言』がある。いずれも末刻本である。前書は傷寒論、金匱要略の処方、また、唐宋以下本朝経験方および丸散処方、諸病の区別、口訣、経験、諸薬の試功を載せ、今日でも運用価値の高いものである。後書は、『雪菴医言』のうちから医薬関係の記述を抄出したものである。『雪菴医言』は道琢が備忘のため速記したもので、諸家の奇方霊剤が数百方記録されており、最も効験のあるものが『驪家医言』に抄出された。(参考・小曽戸洋『目黒道琢』)
29■ 和田東郭
折衷派の泰斗として一世を風靡したのが、和田東郭である。東郭は名を璞といい、字を韋郷または泰純と称した。東郭はその号であり、また含章斎とも号した。寛保三年(一七四三)摂津高槻に生まれた。父は瘍科の医官であった。東郭はその末子であったので本道(内科)を選ばせられ、幼少の頃、隣村伊丹の竹中節斎に学んだ。やや長じて戸田旭山の門に入り、二十六歳で吉益東洞の門人となった。
東郭は初め二条公に仕え、寛政九年(一七九七)御医となり、法橋に叙せられた。二年後には尚薬に任ぜられ、法眼に叙せられている。このようにして医人として位最高の所まで進んだが、享和三年(一八○三)年六十一で病没し、京都東鳥部山に葬られた。
さて、吉益東洞に師事した東郭は東洞の唱える古方医学の学説のすべてを信ずることはできなかったが、古方医学の修業は自分の医学観を形成する上に大きな役割をもったであろう。東洞のほかに東部に強い影響を与えたのは戸田旭山である。旭山は「医学は古経方によるべきであり、その古経方は傷寒論を中心とすべきである」というのである。東郭が折衷医学を説きながら、傷寒論を尊重したのは、東洞とともに、この旭山の感化があったのであろう。ただ、東郭は古方医学の価値を十分に認めながら、古方にも数々の弱点があるのを知っていた。その欠けたるを補うには後世方を以てせねばならぬと考えたのである。そして東郭は「一切の疾病の治療は、古方を主として、その足らざるを後世方等を以て補うべし」と主張するに至ったのである。東郭の考えは中庸を得た温和な治療法であったので、大いに世に迎えられるところとなった。この傾向は今回にも続き、現代日本における漢方医界も同様である。
東郭は、言葉や文字でどうして心得の妙機が伝えられようか、として著述を好まず、門人の筆録にかかるものに、後世特に広く読まれている『蕉窓雑話』を始め、『蕉窓方意解』『導水瑣言』『傷寒論正文解』『東郭医談』『東郭腹診録』などがある。東郭の医学は誠の医学であり、その術は簡精であった。吾人はこに日本民族の、また伝統的な日本医学の性格を見ることができよう。(参考・松田邦夫『和田東郭』)
30■ 亀井南冥
南冥は一般に儒者として知られ、医家としての南冥はその陰に隠れてしまった観があるが、当時の人々に「肥に椿寿あり、筑に南冥あり」と呼ばれ、吉益東洞の高弟たる肥後の村井琴山と並び称された任俠の儒医であった。彼の学識は肥筑の国々はもとより、その子昭陽の門下生広瀬淡窓を通じて、豊前にまで行きわたり、九州における徂徠学派の重鎮であった。南冥は寛保三年(一七四三)筑前国姪浜村(福岡市)で生まれた。父は聴因という村医であるが、当時の身分社会では百姓であった。田舎には珍しい開明の人物で、自ら当時の清新な学派とされた徂徠学に親しむとともに、医術も迷信的要素の多い療法を排し、科学的な医法を採用して信望を集めていた。南冥は聴因の長男で、このような父に訓育された。
十四歳の時、肥前国蓮池の学僧大潮に師事し、次いで京都に赴き、吉益東洞の門に入ったが、居ること数日にしてその医説の偏僻を疑い、「英雄人を欺くものなり」としてその門を去り、大坂に行き永富独嘯庵の門に入った。師の独嘯庵が著わした『漫遊雑記』に、南冥は特に懇望されて序文を書いているが、その時に二十歳の青年であったから、その学識のほどが偲ばれる。南冥は小石元俊、大田亨叔とともに独嘯庵の三傑と称せられる。まもなく南冥は帰国して、父とともに福岡城下唐人町に移って開業したが、すでに医術、学問ともに令名が高く、諸国から多数の入門者が集まるようになった。そのため福岡藩は南冥を士分に取立て、西学問所を建設して教授に任命している。
寛政四年(一七九二)南冥と対立した学派による中傷などにより、藩命により蟄居の処分を受け、二十二年後の文化十一年(一八一四)居室の出火の際死去した。享年七十二歳。
南冥に著述は多いが、医に関するものは『古今斎以呂波歌』『南冥問答』『弁惑論』などがある。漢方医学に対する南冥の態度は、東洞流の傷寒論一辺倒でなく、その短を唐宋元明の後世方で補う、いわゆる「医は意なり、意は学より生ず、方に古今なく、要は治を期す」の方針であった。(参考・寺師睦宗『亀井南冥』、亀陽文庫刊『亀井南冥』)
31■ 中神琴溪
独学によって古方派の医学を修め、疾医の道に徹してよく大医の域に達した琴溪は、近江が生んだ特異な名医であった。琴溪は名は孚、通称右内、字を以隣といい、琴溪と号した。寛保四年(一七四四)近江国栗太群南山田村の真宗西念寺の二男として生まれた。幼い頃膳所の糀屋某の養子になったが、のち大津の医家中神氏の家を嗣いで医師となった。三十余歳の折、六角重任の『古方便覧』をみて感激し、それより発奮して吉益東洞の著書を熟読し、東洞の思想に大いに共鳴したといわれている。
はじめ大津に近い長等山の麓に住み、この間、大津の宿場女郎の梅毒治療に軽粉をしばしば用いて治験をあげた。寛政三年(一七九一)四十八歳の時、京都に移って医業を開き、大いに繁昌した。その後江戸に遊び、また諾国を遊歴したのち、近江の田上に隠栖し、また南山城、宇治付近の有王村に移って桑や茶を植えて楽しんだということである。最後に郷里山田村に帰り、天保六年(一八三五、一説に天保四年)九十二歳で死去した。
琴溪は、医術を修めるには師匠より直接の口伝を受けるべきで、書物でこれを学ぶことは不可であるとした。したがって琴溪自身も自ら書物を著わすことはなかったが、門人が師匠の講義を筆記したと思われる書物がいくつかある。現在琴溪の著書とされているものは『生生堂医譚』『生生堂雑記』『生生堂治験』『生生堂養生論』などがある。
琴溪が医学に対していだいていた根本理念は、「医術は実際に役立つものでなければならない。それには定則に拘泥せず、常に臨機応変の治療をしなければならない。そのためには従来の学説、すなわち規則を破らねばならない」とした。そして、琴溪が門人に教えた第一の点は「事実を尚び、実学を学べ」ということであった。「医学をするのは何の為ぞ、疾を癒やすこそ肝要なるべけれ」のこの一語こそ、琴溪にとっての初志でもあり、終局の目的でもあった。門人の中で後世に名を残したのは、著書に『吐方論』のある喜多村良宅がいる。(参考・山田光胤『自由の医人中神琴溪』)
32■ 山田正珍
山田正珍は、傷寒論研究者必読の名著『傷寒論集成』を遺して、三十九歳で逝った英才である。考証の名家であり、古今の諸説と治験を渉猟して勘案の上、治方を決定すべしと提唱する折衷派に属し、かつ彼のいわゆる正中の正なる後藤艮山の流れを汲み、その学術は多紀一派と同一に論ずべきものではない。『傷寒論』を尊崇し、西洋医学に目を向け、同じく健康にすぐれず夭折した永富独嘯庵を想起させるものがあり、彼もまた独嘯庵を私淑していたと思われる。
山田正珍、姓は菅、氏は山田、名は正珍、字は玄同、また宗俊、図南と号す。書斎を杏花園といった。幕府の医学館に傷寒論を講じた正珍の家は、代々幕府の医官で、江戸昌平橋にあった。正珍は寛延二年(一七四九、一説に一七三一)に生まれる。早熟の才子として知られ、家には祖父伝来の万巻の書籍があり、頭がよくて学問が好きというのであるから、その博識は少年の如くではなかった。
正珍は宝暦十四年(一七六四)わずか十六歳の少年で朝鮮の使節と面接し、詩文の応答を交換している。その筆談の終始は『桑韓筆語』の巻となって遺された。その序に、父の同僚村岡医官は「余の同僚山田氏の子宗俊、年僅かに十六、風神秀朗、学術夙成」と賛嘆している。
正珍は儒学を山本北山、素霊の学を加藤筑水、本草を田村藍水に学んでいる。正珍が生涯最もカを入れたのは、傷寒論の研究であった。後年の医学館における彼の講座も傷寒論である。明の方有執は傷寒論の注解にあたって、彼以前の相伝・訓話にのみ重点をおく註釈態度を排して、はじめて批判的に読むことを主張した。わが国で批判的態度で傷寒論にのぞんだのは、正珍と中西深斎であった。その結晶が『傷寒論集成』として刊行されたのである。この書では彼の明確な主張がある。彼の医論を以て痛烈な批判を展開するのである。随所に天才的ひらめきが見られる。そのほか、正珍には『傷寒考』『天命弁』『新論』『権量揆乱』などがある。
天明七年(一七八七)肺を疾んで、三十九歳で死去した。(参考・松田邦夫『山田正珍』)
33■ 片倉鶴陵
産科医術の開発者として、世界に先がけた数々の業績をあげ、その治療経験を著述することに命を賭けたのが片倉鶴陵であった。鶴陵は諱を元周、字は深甫、号を鶴陵といい、寛延四年(一七五一)相州築井・木村家に生まれ、幼少の頃、近くの医師片倉周意の養子となった。実子のなかった周意は、自分の果たせなかった夢を鶴陵に托した。
鶴陵が十二歳の時、養父周意の恩師多紀元孝の学撲として仕えるべく、上京した。多紀家に入門した当時、元孝の孫・元簡が井上金峨の塾に通学していて、そのお伴をすることにより、共に学ぶことができた。鶴陵は前後十三年間多紀の門にあり、元孝の子元悳から主に教育を受け、「広く文献をしらべ、そのよろしさを探る」学風を身につけることができた。鶴陵は終生、読書のたびに丹念にメモをとり、それを整理する習慣が身についた。安永四年(一七七五)、二十五歳になった鶴陵は多紀家をはなれ、開業。自宅の隣に前野良沢の門人で蘭方医嶺春泰が住み、春泰を通じ、蘭方の知識を吸収した。と同時に賀川流の産科があることを知り、鶴陵は京都へ行き、賀川玄迪に師事。その留学は百日に満たないものであったが、多紀の門で身につけた漢方医学の上にオランダ医学と賀川産科を吸収することができ、将来鶴陵が独自の学問的体系を成す重要な転機となった。
三十六歳の時『徴癘新書』を処女出版、四十三歳の時『傷寒啓徴』を出版した。四十九歳の時、産科を主業とした鶴陵にふさわしい力作である『産科発蒙』を出版した。その頃から名医としてのほまれがいよいよ高くなり、諸侯からの往診の依頼もふえ、一日に薬を求める数は百人に及んだといわれる。
六十八歳の時、『静倹堂治験』を出版。これは田舎の一医家からの要望により、国字で書かれている。鶴陵にはそのほか、『青嚢瑣探」『医学質験』『屠蘇考』などが刊本になった。文政五年(一八二ニ)七十二歳の鶴陵は、病身をおして会津藩松平容衆侯の重病の治療に雪深い会津若松へ行き、その後、半年して惜しまれつつ世を去った。(参考・室賀昭三『片倉鶴陵』、森末新『将軍と町医』)
34■ 原南陽
原南陽は親試実験医学を開花させた医人として、歴史上に名を残した。南陽は名を昌克、字は子柔、通称は玄璵といい、南陽は号である。宝暦三年(一七五三)水戸に生まれた。父は水戸侯の侍医であった。南陽は長じて京都に遊学した。そこで山脇東門について医術を修め、産科を賀川玄悦について習った。
学業が終って江戸に帰り開業したが、貧乏暮らしで、按摩鍼灸によって辛じて生活を立てていた。不遇時代、有名なエピソードがある。ある時水戸侯が急病になった。江戸の名医大家を呼んで手を尽くしたが、さらに効なく人事不省で危篤になった。その時、家臣の一人が南陽に治療を託してはどうかと進言し、南陽は水戸侯を診察し、劇薬走馬湯を投薬して、侯の病気を治してしまった。この件で水戸侯は南陽を徳とし、侍医に抜擢して五百石を与えたのである。走馬湯は杏仁と巴豆を処方したものだが、それを南陽は銭九文で買って投薬したので、九文の元手で五百石に成ったことが当時言いはやされた。
南陽の著書は数多いが、『叢桂亭医事小言』『叢桂偶記』『寄奇方記』『砦草』『経穴彙解』などがよく知られる。『叢桂亭医事小言』の中で南陽は、「余が門にて初学の童子にはまず傷寒論を暗記さするなり」と、はじめに古方を尊重することを示し、次いで、「方に古今なし、その験あるものを用ゆ」といい、「されども方は狭く使用することを貴ぶ」と述べている。同書には南陽の蔵方が集められているが、乙字湯は痔の薬としてあまりにも有名である。『砦草』は軍事上大切な医学の心得を書いたもので、我が国軍陣医学の著述として版になったものはこれが最初という歴史的な著書である。
南陽は自著の中で「方は約ならざれば薬種も多品になる、華佗は方数首に過ぎずというは上手にて面白き事味わい知るべし」「学んで是を約にするを第一の学問とす」といった簡約を旨とする思想を述べているが、これは実証主義から会得したもので、和田東郭の医学思想とオーバラップして、名人上手に共通するものを覚える。侍医の職に在ること三十余年、文政三年(一八二○)没した。享年六十八歳であった。(参考・松田邦夫『原南陽』)
35■ 多紀元簡
江戸時代わが国漢方医学の牛耳を執り、医学館を創立して諸生を教導し、稀覯書を校刊して重要文献を考証整備した多紀家累代の大業績は、日本医学史上の一大偉観であった。その頂点に立って考証学派を大成したのが、七代多紀元簡と、その子元堅である。元簡は字を廉夫、幼名は金松、長じて安清と称し、通称は安長、桂山または櫟窓と号した。宝暦五年(一七五五)元悳の長男として、江戸に生まれた。
元簡は医学を父元悳に、経書を井上金峨に学んだが、幼い頃から頭脳明晰、記憶力抜群であった。三十五歳のとき、執政松平定信が元簡を呼んで医事を試問したが、元簡は直ちに医事三十余条を明らかに弁析して定信を大いに驚嘆させた。そして定信は元簡を奥医師となし、侍医に抜擢して法眼に叙した。次いで元簡は父元悳が主宰する医学館督事に就任し、四十歳の時、御匙見習となる。
寛政十一年(一七九九)元簡は家督を嗣ぎ、将軍家斉の侍医御匙となったが、二年後、医官詮選にからむ確執から奥医師を罷免され、寄合医師に左遷、百日の屏居を命ぜられた。その間、元簡は旧著を刪定したり、『医賸』の編述を行い、もっぱら後進を啓迪することを己が任務とした。文化七年(一八一○)再び奥医師に任ぜられたが、御匙とならず、その年の暮、急疾を発して急逝した。享年五十六歳。
元簡の事績は、これを四項目に要約することができよう。その一は、医学史上の考証学派としての業績、その二は医学館の主宰者としての後進の指導、その三は古典校刊事業、そしてその四は旺盛な著作活動である。
元簡の著書は実に多いが、代表的なものは『傷寒論輯義』『金匱要略輯義』『観聚方要補』『素問識』『霊識』『脈学輯要』『医賸』などがあげられる。『傷寒論輯義』は、傷寒論の各条について中国における諸家の注解を集録考証したもので、広く中国の諸説を知る上で欠かすことができない。また『観聚方要補』は隋唐、金元、清に至るまで二一二冊に及ぶ方書から、病類別に有効処方を集大成したもので、医家、薬局の常用処方集として必備の書である。(参考・矢数道明『近世漢方医学史』)
36■ 多紀元堅
江戸時代後期、幕府医学館督事として運営の衝に当たった多紀家の中で、その業績の秀でた巨峰として、最も光輝を放っているのが茝庭多紀元堅である。元堅は、字を亦柔、号を茝庭、幼名綱之進、長じて安叔と称し、寛政七年(一七九五)元簡の五男として江戸に生まれた。多紀本家は三男の元胤が嗣いだため元堅は分家している。天保二年(一八三一)三十七歳にして、はじめて医学館の講書を命ぜられ、四年後、奥詰医師となり、毎月一回将軍家斉の拝診を命ぜられた。
天保七年(一八三六)奥医師となり、家斉の隠退に従って西丸附となり、法眼、同十一年法印に昇り、楽真印と称した。弘化二年(一八四五)、五十一歳の時、将軍家慶の御匙となり、屋敷を賜り、浜町元矢の倉に転じ、嘉永六年(一八五三)印号を楽春院と改め、安政四年(一八五八)に没した。亨年六十三歳。
元堅の著書と校刊事業は、特に医学館の名声を高め、目本医学史上不朽の業績として現在に生きている。著書の代表的なものは、『傷寒論述義』『金匱要略述義』『難病広要』『薬治通義』『時還読我書』がある。校刊事業は、なんといっても半井家秘蔵の『医心方』の校刊が光っている。これは元堅と本家の多紀元昕が総理となって、当時の江戸医学館の考証学者を総動員して覆刻したものである。また、『備急千金要方』も校刊している。
元堅はどんなに貧しい家から治療を請われても喜んでそれに応じた。そして薬を無償で与えるばかりでなく、夏は蚊帳を、冬は布団を、また貧窮の度に従って金銭までも恵んだといわれる。
元堅は曲直瀬玄朔掟十六条の第十一条に「貴賤に限らず精を入るべし。いかに卑賤の者なりとも、病者をば我が身の主君と心得べし、云々」とあるのを読んでいたく心を打たれたらしい。自身の著書『時還読我書』の下巻に「延寿院玄朔の遺戒は至って深切なるものなり、げに篤志の人と思わる。貧賤の疾をも意を用いて治すべし、主君へ奉公と思うべし、といえるは最も感服に堪えたり」と記している。元堅は玄朔に劣らぬ仁術を施したのである。(参考・矢数道明『近世漢方医学史』『医心方命名のいわれ』)
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37■ 川越衡山
川越衡山は中西深斎に従って古医方を学び、別に一家を成した。川越家は清和源氏川越詮真の後裔で、詮真九世の孫は関牧庵と称し、医を業として土佐高知に移った。その子海南は京都に移って、儒医を業とした。衡山はその第五子である。
衡山は諱は正淑、字は君明、一字大亮、衡山はその号である。宝暦八年(一七五八)京都に生まれた。
富士川游の『川越衡山』には次のように記されている。すなわち、「先生の中西深斎について古医方を修むるや、一意精研其奥旨を極む。深斎大いに喜び乞うて以て嗣となし、配するに其女を以てす。先生窃に以為らく、深斎の所説未だ仲景の薀を尽さざる所あるに似たりと。乃ち焦心苦慮之を久うして始めて自ら真髄を得たりとなし、これを深斎に質す。深斎可とせず。そして両説相愜わず、深斎の学帰一の義なしと。遂に辞して旧姓に復し、別に門戸を立て、唱道して曰く、『天道無邪万病一』。
先生初め霊鑑公主に仕え、文化六年(一八○九)典薬寮医師に補せられ、従六位上佐渡介に任せらる。文政六年(一八二三)従五位下佐渡守に至る。文政十一年(一八二八)卒す。享年七十一。
先生人となり謹厚淳朴、進退軽挙せず、言笑亦苟ともせず、最も世の業を口頭に衒い、踵を権豪に企るものを嫌忌し、その意にかなわざれば則ち勢家巨族の請といえども辞して行かず。是を以て人その徳に服し、王門縉紳の使介陸続門に満ち、郡鄙市井の病客来り集まりて庭に溢るという。」
衡山の著述は『傷寒論脈証式』『傷寒薬品体用』などが代表作である。衡山の病に対する考え方は、精気と邪気のたたかい、と見るところに尽きるようである。したがって、陰陽虚実は邪気が体を犯した時、すなわち病気が始まった時に始まるとする。三陰三陽は病気の流れだとする。また脈について、そして証については、表面づらだけを見て判断するのでは治療の蘊奥をきわめることはできない、ということをしばしば述べている。『傷寒論脈証式』は傷寒論の註釈書として論述のしかたは独自ではあるが、独断ではなく、優れたものである。(参考・藤平健『川越衡山』)
38■ 有持桂里
有持桂里は名著『方輿輗(ほうよげい)』の著述者として光彩を放っている。桂里は名を希藻、字は文磯、常安と称す。号は桂里、また毓春園ともいう。阿波の人で、宝暦八年(一七五八)に生まれる。十九歳の時京都に上り、医学を三角法眼に三年間学び開業した。三角法眼は『京都の医学史』によると、三角了敬のことであり、禁裏の医官となり、法印に叙せられている。
桂里の開業は盛業で、診療を請う者で門前市をなしたことであったであろう。文化九年(一八一二)知恩法親王の侍医となり、法橋に任せられた。寛政末年から享和の初めの一八○○年頃に板行された医師番付には、東の大関に和田東郭、西の大関に荻野台洲があがっている。また小結に三角了敬(桂里の師)の名があり、前頭三枚に有持桂里がいる。また前頭十枚に中神琴溪、二十枚に産料の賀川玄悦の名も見える。
桂里の学風は、いわゆる折衷派といわれるものである。この学派は処方の運用を克明に追求した。和田東郭、百々漢陰、山田業広、浅田宗伯たちも同様の立場をとったものであり、現代日本の漢方は折哀派の貴重な経験を継承している面が多いのである。桂里は『校正方輿輗』の題言に、「傷寒論は経方であるから、そこから治療の原則を学び、方剤を日本や中国の多くの書物からとって、不備の面を補って、よい治療法を発見するようにしてこそ、なすべきことをすべてやり尽したことになる」と説いている。桂里の学風は、和田東郭が「一切の疾病の治療は、古方を主として、その足らざるを後世方等を以て補うべし」と主張しているのと軌を一にするものであった。『方輿輗』は桂里の著述のうちでもっとも重要で、最大の書である。方輿とは薬方を乗せる車の意味で、輗とは大車のながえの先端に横木をとりつけるための小さなくさびである。それは、輿を進める意味で、機活六訣すなわち、方剤活用の奥義のことである。この書を八谷子良が筆記をし、校正して刊行されたのが『校正方輿輗』である。
桂里は天保六年(一八三五)死去。七十八歳であった。(参考・原桃介『有持桂里』)
39■ 稲葉文礼
『腹證奇覧』の著者として知られるのが、稲葉文礼である。文礼は生年も出生地もはっきりしない。名は克、通称を意仲、湖南と号した。
その先祖は河野七郎から出て、代々江州(滋賀県)の菩提寺に住んでいた。文礼は幼少の頃、両親に別れて孤児となり、長ずるに及んで放蕩無頼の徒となって京坂の間を往徨し、悪のかぎりを尽くしたという。
ところがある時、友人の言葉に感動して、医家になろうと志した。しかし、学問をしたことがないから「目、書を知らず、耳、文を聞かず」という文盲であった。そこで各地の名医の門を叩いて、書物を読まないで医者になる方法をたずねて歩いた。
各地を遍歴しているうちに、鶴泰栄という名医に出合った。泰栄は出雲の出身で、吉益東洞の門人ではないが、東洞を尊敬し、古方を研究した腹診の名人であった。
天明六年(一七八六)文礼は『腹侯弁略』という小著を書いている。この書では、胸脇苦満、心下痞硬というような腹證がどんな形状のものであるかを説明している。その頃、文礼は諸国を漫遊して、江戸に来て京橋に住んでいたらしい。寛政四年(一七九二)文礼は甲州に遊んで、永田徳本の遺著とされる『徳本十九方』を手に入れ、徳本秘方を得たと喜んで帰る途中、和久田叔虎と浜松で出会った。そして意気投合し、二十年振りで同志に会ったといって喜んでいる。
寛政七年になると文礼は京都に移り、門人関完俊が代筆して『腹診図彙』を著している。寛政十二年にはやはり門人に口述筆受させ、『腹證奇覧』四巻を著わした。この書は、和久田叔虎の『腹證奇覧翼』とともに、わが国における傷寒論系の腹診書の代表的文献となっている。
文化二年(一八○五)文礼は叔虎に後事を托して浪花で波乱の一生を閉じた。(参考・大塚敬節『稲葉文礼と和久田叔虎…腹診の伝承…』、矢数道明『稲葉文礼と和久田叔虎の師弟関係』)
40■ 和久田叔虎
傷寒論系の腹診書の著者として著名な和久田叔虎の生年、出生地は不明である。稲葉文礼が甲州に遊んでの帰路、遠州浜松で寛政五年(一七九三)叔虎と出合っているから、浜松の産かもしれない。
そのとき文礼は、自分の術を伝えるに足る人物に始めて会ったといって大喜びし、数力月間浜松に留まり、自分の修得した腹診の法を残さず叔虎に伝えたというから、相当人間的にすぐれた人物であったのだろう。
寛政十年(一七九八)叔虎は江戸に移住した。『読腹證奇覧』の自序の中で、「余は故あって家を提え、東都に遷り、事故に遇い、窘迫しきりに至る」とあることから、何か不幸な事故のため困窮な生活を送っていたらしい。
江戸に在る期間、叔虎は街の書店で師の著書『腹證奇覧』を見つけ、胸をおどらせて読んでいるうちに、いくつかの誤謬を発見し、見解を異にするところもあった。叔虎はその罪を師の文礼に被せず、すべて門人の科として『読腹證奇覧』を著わし、その誤を正した。
しかし、これを公刊するつもりはなかった。ただ恩師の名で公刊された『腹證奇覧』をそのままにしておくことは、叔虎の良心が許さなかった。そして江戸を去って関西に旅立ち、亨和三年(一八○三)師の文礼の浪花の住居を見つけ、十年振りの面会をすることができた。
当時病体だった文礼は、医事を談じると、話題はいつも腹診に関することばかりであった。そうこうしているうちに、文礼の病は重くなり、再起が不能であることをさとると、叔虎に後事を托して『腹證奇覧』を増補して完全なものにしてくれと頼み、文化二年(一八○五)長逝した。叔虎は文化四年京都に移り、文礼の跡を嗣いで、その足らざるところを補い、ついに文化六年(一八○九)『腹證奇覧翼』初編二冊を刊行した。その後、叔虎の死後同書の第二編、第三編、第四編が刊行されている。(参考・大塚敬節『稲葉文礼と和久田叔虎…腹診の伝承…』、矢数道明『稲葉文礼と和久田叔虎の師弟関係』)
41■ 華岡青洲
華岡青洲の名を不朽ならしめたのは、世界初の全身麻酔法であった。また、青洲の創案になる手術手技や薬方は、現代外科の欠を補うに足るものが多い。すなわち、麻酔以外のあまり知られざる臨床面においても、青洲の業績は光り輝いているのである。
華岡青洲、名は震、字は伯行、俗称雲平、父祖の称をつぎ随賢(三代)ともいう。家号を春林軒といい、宝暦十年(一七六○)紀伊国那賀郡平山村の医家華岡直道の長男として、近郷の豪族松本氏の娘於継を母として出生した。二十三歳の時、京都に上り吉益南涯について古方を、大和見水にオランダ流外科を修めたとされる。傍ら多くの人と交わって儒学や各派の医学を研究した。京都遊学三年にして父の死去により、二十六歳で家業を嗣ぐ。その後三十六歳の時、京都に行き、製薬等の勉学をしている。その主目的は麻酔薬の研究であったらしい。その頃青洲は麻酔薬の必要を痛感し、諸方の薬方を集めることに余念がなく、その成果の一部は『禁方録』や『禁方集録』などにまとめられた。
紀州平山での青洲は臨床一筋に精進を積み、四十三歳で紀州藩に召され、士分に列し帯刀を許された。記念すべき全身麻酔下による最初の手術は、文化元年(一八○四)に行われた。六十歳の老女の乳癌に通仙散を用いて、腫瘤摘出術に見事成功したのである。麻酔薬の完成によって華岡流外科は手術手技も多彩を加え、従来の外科医が行い得なかった腫瘍摘出術、関節離断術、膀胱結石摘出術、腟直腸瘻閉鎖術、内翻足整復術をはじめ各種の手術法を考案し、相当の成果を挙げることができた。
青洲の全身麻酔薬通仙散は、原方が花井仙蔵、大西晴信にあり、おそらく中川修亭を介して青洲に伝わり、完成されたものと考えられる。大成して天下に名声が轟いた青洲は、民衆に対する医療尊重の故をもって、紀洲侯の招きをも再三断わり、特例の勝手勤めで藩の侍医待遇となり、一生を在野にあって診療の第一線で活躍し、南紀の僻村に青洲の盛名をしたって集まる向学の医生はおびただしい数にのぼった。天保六年(一八三五)没した。享年七十六歳。(参考・宗田一『華岡青洲』、石原明『華岡青洲』)
42■ 浅井貞庵
尾張徳川家の藩医として十代にわたって継承された浅井家七代の俊英が、浅井貞庵である。貞庵、名は正封、字は堯甫、幼名を小藤太、のち平之丞と称した。号は貞庵、また檞園、静観堂、文燭とも号した。明和七年(一七七○)名古屋に生まれた。八歳の時、父母相次いで没し、十二歳の時、義父南冥も早逝し、さらに翌年、祖父図南も没したため、十三歳にして藩医となり、医学教授を命ぜられている。
まもなく京都に医学修業のため上洛し、遊学七年二十歳にして郷に帰り、はじめて講堂に上って学生教養の任に当たった。寛政十一年(一七九九)浅井氏邸内に藩費を以て医学館創建の命をうけ、文化の頃医学館が完成した。講義は素問、霊枢、傷寒論、金匱要略、本草備要、薬性歌括、本草綱目を請じ、門人は三千人に及び、著述は三十四部に達した。
代表的な著書には、『方彙口訣』がある。この書は『古今方彙』の口訣で、解説書として唯一無二のもので、中風に始まって痛風に終る病症百余種と千余方の処方をあげて、貞庵の経験から得た治療のコツを平易に述べてある。主治条文の解説をみると、その学識の深淵広大さが随所に光輝を放っている。そのほかの著書に『薬性和解』『本朝名医伝略』などがある。
貞庵は寛政十二年(一八○○)奥医師に任ぜられているが、その前年十二月に初めて藩主に屠蘇奉献の命があり、翌年元旦に屠蘇散、白散、度瘴散を古式に則り献納している。
貞庵の業績として特筆すべきは、仁和寺秘蔵の『太素経』と『新修本草』を借り受け、筆写したことである。これは十代浅井国幹が著わした『浅井氏家譜大成』により経緯が明らかになった。両書は久しく世に出なかったが、それを密かに借り受けてわずか一力月足らずで写し終えたのである。貞庵はこの時喜びのあまり一詩を賦し、模写の人々の功労を讃え、その完了を喜んだ。
貞庵は文政十二年(一八二九)、六十歳で没した。墓は名古屋市千種区の常楽寺にある。(参考・矢数道明『近世漢方医学史』、『浅井国幹先生顕彰記念文集』)
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43■ 山本鹿洲
日本で「脈無し病」が問題にされるようになったのは戦後のことだが、これを世界で初めて臨床報告したのが山本鹿洲である。その鹿洲は明和七年(一七七○)に生まれた。諱は正といい、字は子直、通称を貞惇、鹿洲は号、常陸(茨城県)牛渡村の人である。
鹿洲は十五歳のとき江戸に遊学、経書を諸葛琴台に、薬物を太田大洲に学んだ。寛政元年(一七八九)二十歳のとき父元持が病弱になったため遊学を中止して家に帰り、医業に専念することとなった。するとたちまち名声があがり、奇症や異病の患者が門に満ちたといわれる。
鹿洲は貧困者には謝礼を返し、衣食を与えたり、旅費を恵んでやったりした。門人も多く諄々として倦むことなく教え導いた。盲目の孤児を引きとって五十年間にわたって世話をしている。
寛政十二年(一八○○)、三十一歳のとき京都や広島に遊び、和田東郭を京都に訪ねて、医道の薀奥を筆記し、癖嚢病(胃拡張、胃がんの類)の治法を教わった。
文政三年(一八二○)五十一歳のとき、家事を子の豊とその妹に任せて、薬園の中に新築した小屋に起臥するようになる。その庭に大きな鐳柚(橘の木)があって、一つの幹から五つの枝が分かれていた。そこで鹿洲は自らを五柚庵と呼ぶようになる。諸葛琴台は小屋に陽春館という名前をつけてくれた。
ここに移ってからは、患者の数は旧に倍し、門人も増すばかりであった。鹿洲の名声は、東は銚子、南は東都、西は筑波、北は水戸にまでとどろいたといわれる。鹿洲は、さっぱりした簡単な薬を処方して劇症を治すのを得意とした。その顕著な治験は『橘黄医談』の中に詳しく述べられている。
「脈無し病」が収められているのが『橘黄医談』だが、鹿洲にはこのほかに『癖嚢編』『四大病医』『蟄居庵一家言』『類症弁疑』『今方試効』『詩文草若干巻』など十数編の著書がある。
その文章からも、鹿洲の識見の非凡さがうかがわれる。鹿洲は天保十二年(一八四一)、その生涯を終えた。享年七十二歳。(参考・矢数道明『近世漢方医学史』)
44■ 中川修亭
中川修亭は吉益南涯の高弟で、古方の大家であるが、後世方にも理解をもち、さらに華岡青洲を友とし、外科蘭方にも通じていた名医である。
修亭は名を故または定故といい、字は其徳、号は壺、また壺山、通称は周貞、しばしば修亭の字を用いている。その他、抱神堂主人とも号した。修亭は明和八年(一七七一)京都に生まれた。天明八年(一七八八)京都の大火で罹災したので、郷里近江に帰る父と別れて紀州に行き、華岡青洲のもとに身を寄せた。これは、青洲が京都修学時代から修亭と交遊していたので、修亭は旧友を頼って紀州へ行ったのではないかと推測される。
さて、修亭は紀州に在ること数年の後に京都に帰り、古医方の吉益南涯の門人となった。これより修亭は吉益流の古医方の研究に精進する。自著『真庵漫筆』で、「我生まれてより海内に名医と称すべきもの、南涯翁、中神琴溪翁、和田東郭翁、冨野玄達この四人なり」と語っていることからも、修亨がいかに南涯を尊敬していたかが分かる。修亭は南涯の没後、自分の記録他をもとに南涯の治験録を記した『成蹟録』を著わし、さらに巻末『南涯先生六十寿序』を付して、「南涯先生の徳を知る者が日毎に少なくなっていくのを黙していられずに記した」と述べている。
文化二、三年の頃、海上随鷗が京都に来て蘭学塾を開いたので、修亭はその門に入って蘭学をかじっている。随鷗の門人帖によれば「文化三年(一八○六)九月上旬浪華中川修亭故」とある。時に修亭三十六歳であった。修亭がすぐれた臨床家であったことは『成蹟録』や『険証百問』のほか、『真庵漫筆』などにより、うかがわれる。彼は古医方を尊んだことは明らかであるが、実際の臨床にあたっては、後世方をも尊重したようである。また外科を能くしたことも知られる。さらに修亭が駆梅用の水銀剤製造を研究したという事実も近年明らかにされている。修亭は嘉永三年(一八五○)八十歳で没した。(参考・松田邦夫『中川修亭』、宗田一『華岡青洲の門人第一号とされてきた中川修亭についての補訂』)
45■ 奈須恒徳
江戸後期、多紀氏と同時代に江戸にあって、我が国古代の医書を蒐集検討し、綿密なる校正を施し、我が医学界に伝えた書誌学者がいた。奈須恒徳がその人である。
恒徳は字を玄盅と称し、柳村と号した。安永三年(一七七四)江戸に生まれた。本姓は田沢氏である。田沢氏は代々幕府の医官を勤めたが、五代目安久の次男が恒徳で、十七歳の時、同じ幕府医官である奈須玄真の聟養子となった。恒徳は二十一歳の時、奈須家家督を嗣いだ。
その間、十九歳の時に多紀家の医学館に入って、多紀藍溪、ついで元簡のもとで医を学んだ。しかし考証学を重視する多紀家の学風に満足せず、奈須家の医祖玄竹が曲直瀬道三の門人であったことから、道三の学説を祖述し、また本邦医書の研究に従事する志があった。そして、医官としての出世を断念し、三十一歳の時、本所柳島に退隠して、専ら古医書の研究にあたるようになった。
道三を中心とする日本医書の研究に生涯をささげた恒徳は、はたして多くの貴重な業績を遺した。その中で特筆すべきは、田代三喜が在明中に師事した月湖と称する医師が本邦人であることを推定したことである。恒徳が校正、整理した古医書は『棒心方』『全九集』などがよく知られるが、そのほかにも多数あり、富士川文庫に写本が伝わっているものだけでも三十五点を数えるという。
恒徳は道三の研究を終生の仕事としたので、その方面の業績も多い。道三や玄朔の著述を筆録して、『家学源流抄』『七部集要』『一溪全書』『弁致秘書』などが手写本あるいは刊本として伝えられている。
恒徳のいま一つの重要な仕事は日本医史に関するものである。恒徳以前の医史に関しては黒川道祐の『本朝医考』があるのみであり、同書の誤謬をただし、遺漏を補うことから出発した恒徳は、まず『豹斑録』を著わした。恒徳の主著となったのは『本朝医談』『本朝医談二篇』で、本邦の歴史上の医薬、医方、医制、疾病などについて伝えられたことを随筆風に叙述したものである。
恒徳は天保十二年(一八四一)六十八歳で没した。(参考・大塚恭男『奈須恒徳』)
46■ 宇津木昆台
宇津木昆台は五足斎を自称していた。これは自ら神・儒・釈・老・医の五者に習熟して自ら足れりとしたからであり、京洛の人もこれを許したという。
昆台は名を益夫、字を天敬、俗称は太一郎で、昆台はその号である。安永八年(一七七九)生まれ、尾張名古屋の人で、幼時より学を好み、松田棣園を師とし、医を浅井貞庵、平野竜門に学んだ。十八歳の時、京に出て、諸大家の門に学び、医術の深奥をきわめた。そして、京都車屋町御池に医を開業して古医方の大家となった。
昆台の唱えた古医方がどんなものであったか、平易な日本語で二十五巻にわたって書きとどめた大著『古訓医伝』に詳細が明らかにされている。
昆台の医説は、諾病の原因は風・寒・熱の三つにもとづくとし、吉益南涯の気血水論をさらに改新している。昆台が『古訓医伝』の中でもっとも力を注いだものは、傷寒論を解説した巻七~十三の「風寒熱病方経篇」である。昆台は傷寒論は一大文章であって、前後の文章との関係を詳しく考察して、章句を移動して、それによって解説を下している。
巻十四~二十の「風寒熱病方緯篇」は金匱要略に該当するところで、たての糸である経に対して、よこの糸である緯の関係であり、この経と緯を用いて完全な一枚の布を織るように、この経と緯を応用して、はじめて万全の治療が可能になることを説いている。
そのほか、昆台には医家の伝記を記した『日本医譜』七十巻、老荘の学を研究した『解荘』など多数の著書がある。嘉永元年(一八四八)七十歳で没し、永観堂の西南方の慈氏院に葬られたが、後年墓とともに慈氏院は南禅寺福地町の現在地に移転した。(参考・大塚敬節『異色ある宇津木昆台の医学』、杉立義一『京の医史跡探訪』)
47■ 和田元庸
和田元庸は、吉益南涯門下の逸才である。元庸は号を峰州、峰州園といった。生没年は不明だが、著書『三世医譚』によって、生後はほぼ推定できる。
というのは、「二十五歳の時、京へ上って和田東郭の門人になろうとした。ところが京へ着いてみると、東郭はすでに死去していた」とあるからである。東郭の没年は一八○三年だから、元庸が上洛したのがその一、二年後として逆算すると、元庸の生年は一七八○年(安永九年)前後ということになる。
『三世医譚』により、その前半生もおぼろげながら知ることができる。元庸は奥州盛岡藩遠野の人である。家は代々医者をして、少なくとも三代は続いていたと思われる。
十五歳の時、仙台へ遊学し、小山玄水について学問をした。傍ら梅津元泰に入門して医学を修め、五年後に帰郷したあと、東北各地を数年にわたって遊歴した。また元甫(不詳)について李末医学を学んだ。その後、宮古港へ遊歴したおり、たまたま昔、元庸の祖父と昵懇だったという人から元庸が傷寒論に暗いことをつかれた。以来必死になって傷寒論の註釈書を古今にわたって読み、また自ら考究した。
その後、上京して東郭について学ぼうとしたが、すでに死去していたので吉益南涯の弟子になった。南涯の塾にいたのは、二年以上だったと考えられる。京では荻野台洲や有持桂里、橘南谿らにも医術を習って郷里へ帰った。そして、『三世医譚』『傷寒論精義外伝』を著わした。
『三世医譚』は上下二巻よりなる医学随想集のごとき書である。開巻第一に「夫れ医の第一に心得べきは傷寒論なり、本朝の名医も、傷寒論、金匱要略に熟したる人は、治療極めて上手なり」と述べ元庸の医学の基盤を示している。『傷寒論精義外伝』は師の吉益南涯の『傷寒論精義』の敷衍を志した上下ニ巻の書で、精義にしたがって傷寒論を気血水説で解釈している。当時、著書の出版はほとんど自費でなされ、しかもかなり費用を要したとされる。しかし、そのお陰といおうか今に至る医名を残すことができた。(参考・山田光胤『和田元庸』)
48■ 内藤尚賢
『古方薬品考』という名著を残した内藤尚賢とはいかなる人物であったのか、種々文献にあたってみてもその事蹟は全くといってよいほど不明である。
わずかに『天保医鑑』に「内科、薬品家博学善詩文。内藤主馬、剛甫。藤原尚賢字仲号金陵又朱蕉園○堺町夷川北。著書、古方薬品考五冊、続薬品考全十冊、備急良方三巻」とあり、また天保版の『平安人物志』に「藤尚賢、内藤主馬、字剛甫、号魯斎。著書、古方薬性弁」とあるだけで、生年も没年もっきりしていない。ただ、当時京都において相当勢力のあった宮中出入りの御典医であったことは容易に推定できる。また小野蘭山の門人録にその名が見られるから、蘭山に師事したことは間違いない。
弟子は全国から集まっていたようで、『古方薬品考』全五巻の各巻の校正を薩州、東都、勢州、平安、浪華の門人にやらせている点からも推察しうる。また著書中の図は当時の京都画壇の各派の名家を網羅して描かせたもので、尚賢の実力のほどをうかがい知ることができる。
『古方薬品考』は、傷寒論、金匱要略に収載された薬物二百二十余種について、その薬性、選品を弁じ功用を明らかにした書であり、そのうち特挙すべきは選品と挿図にある。選品は今日でも通用する点が多く、図は写実性に富み、江戸未期における薬物基源を知るうえで大いに参考になると同時に、一種の芸術作品としての価値もある。まさに江戸後期の代表的薬物書といいうる。
また『古方薬品考』の特徴は、現実の商品の医療用としての品質評価という面で、当時の市販品の実際に言及し、治療の面からその真偽、良否を要領よくまとめ論じている点で、医家の意を満たした内容になっていることである。
この書は天保十一年(一八四○)に稿が成り、翌年刊行されたものであるが、現在見られる版本はすべて『増補古方薬品考』であって、増補される前の版本は見当らない。おそらく『平安人物志』に見られる『古方薬性弁』あたりが母胎となって成ったものと思われる。(参考・難波恒雄『内藤尚賢』)
49■ 古矢知白
易の思想で傷寒論を説明した異色の医家が古矢知白である。知白は剛斎と号し、北総の人であるが、生没年は不明で、事蹟についても詳しいことはほとんどわかっていない。弘化三年の頃(一八四六)には生存していたと考えられる。
著書には『症因問答』『古方括要』『傷寒論正文復聖解』『傷寒論国字復聖弁』『正文傷寒論復聖弁』『復聖正文傷寒論』などがある。『症因問答』は上中下の三巻三冊よりなり、男の古矢知往が弘化四年に序文を書いて、百部絶版として限定出版をしたものである。この書は門人の質問に対する応答と治験を録したものだが、その中に登場する門人は二十余名で、国籍別にすると越中、北越、加州、南越、上毛、仙台、作州、紀州、江州、常陸、浪花、備後、勢州であって、越中五人、北越四人、加州、常陸、浪花が各二人で、他は各一名である。そして、『傷寒論国字復聖弁』を校正した穆斎古矢祐は越中の人であり、また治験は加州、北越、越中、越後、能州などの人が多くあらわれているから、今の富山県あたりに開業していたことがあるのではと想像されるが、また浪花にも門戸を張ったことが『症因問答』に出てくる。
『古方括要』は洛東の五溪鼎という人が序文を書いているが、出版の年月は不明である。内容は雑病、婦人科、小児科、外科の治療を述べたものである。『復聖正文傷寒論』は、傷寒論中から百十一章、七十九方を採って、これを先聖の正文とし、弘化三年に知白が序文を書き、門人の浅井貞甫が例言を書いている。また『正文傷寒論復聖弁』は写本で残っているが、知白の没後、浅井貞甫、男の古矢知往らが上梓するにあたって語句を改め『傷寒論国字復聖弁』と命名上梓したもので、内容は同一である。
知白は徹底徹尾、易理を以て傷寒論を説き、薬方の分量から煎煮法に至るまで説明する徹底ぶりで、傷寒の薬方を加減もせず、合方もせずにそのまま用いて、天下の難病、奇病をどんどん治癒せしめたといわれる。(参考・大塚敬節『正文傷寒論復聖弁解説』、『大塚敬節著作集』)
50■ 尾台榕堂
幕末から明治維新へかけての一大変換期にあって、古方医家の雄たり得たのが尾台榕堂である。榕堂は雪深い北越(新潟県)魚沼郡中条村の小杉家に、寛政十一年(一七九九)呱々の声をあげた。幼名を四郎治といい、名は元逸、字は士超、榕堂また敲雲と号し、通称を良作と称した。遠祖は高田藩の浪士小杉玄蕃であって、二代以後は累代医を業とし、榕堂の父は四代目にあたる。
幼にして俊敏だった榕堂を啓発したのは、近くの円通寺の惟寛禅師である。この師は江戸駒込の吉祥寺で刻苦精励し業成って故山に就いただけあって、天下の名家とも交遊があった。中でも親交のあった儒家亀田鵬斎の推挙で、榕堂は文化十三年(一八一六)江戸の医家尾台浅嶽の門に入った。浅嶽は岑少翁の門下である。榕堂は浅嶽の門に在って医学を実地に学ぶ傍ら、亀田綾瀬に師事して経史や詩文を修めること十年。文政七年(一八二四)、母堂老い、兄も病に倒れるの報を得て急拠帰郷することになった。郷里では、この新進青年医家を遇するに厚く、患者は文字通り門前市をなした。
しかし、天保五年(一八三四)江戸の大火は恩師であった尾台浅嶽一家を焼き、ついで逝去された悲報を得、とりあえず出府し、遺族の要請もだし難く、再度生家を離脱し、その遺子を守るために尾台良作を襲名し、学・術を兼修その大成を遂げたのであった。その証は当時最大の栄誉である徳川大将軍に単独賜謁を得て、侍医に招ぜられたことである。文久三年(一八六三)六十五歳の時であった。明治三年、七十二歳で没し、谷中三崎北町観音寺に葬られた。
著書には『方伎雑誌』『類聚方広義』『橘黄医談』『重校薬徴』『療難百則』『医余』『井観医言』などがある。『方伎雑誌』は榕堂の全生涯にわたる医学に関する処世観、幼時の経験、治験、趣味のあり方など諸種雑多な事項が収められており、『類聚方広義』は東洞の『類聚方』に自己の経験に基づく意見その他を頭註として入れたものである。榕堂が古方に対する信念が確固不抜のものであったことは、その著作の至るところにあらわれている。(参考・藤平健『儒医両道の仁医尾台榕堂先生伝』)
51■ 本間棗軒
華岡流外科の大成者として、本邦外科史上燦然とその名をとどめるに至ったのが本間棗軒である。棗軒は諱を資章、後に救と改める。字は和卿、通称玄調、棗軒はその号である。
本間家初代の道悦は美濃の人だが、九州天草の乱で不治の傷を負い、医に志ざした。その後、江戸を経て水郷潮来に定住、薬室を自準亭と称し、医家本間家の初代が誕生した。本間家は四代道意に至って常陸小川郷に居を移した。五代玄琢は棗軒の祖父であり、棗軒の父玄有は玄琢に養われ嗣となった。棗軒は玄有の第一子として、文化元年(一八○四)呱々の声をあげたのである。六代目は玄琢の長子道偉が嗣いでいるが、道偉は男児なきため、棗軒を養子に迎え、後に本間家七代を嗣いだ。本間家は玄琢をはじめとして水戸藩の名医原南陽になみなみならぬ薫陶を被っている。岳父道偉の深い愛情により棗軒は十七歳で江戸に出て、原南陽の門に入っている。しかしまもなく南陽は没したので、師事した期間はほんのわずかだったと考えられる。
また棗軒は杉田立卿につきオランダ医学を学び、太田錦城に経義を問い、さらに西遊して華岡青洲の門に入った。そのあと長崎で種痘の術を学びつつ、シーボルトの医術を観察している。数年後、江戸に戻った棗軒は日本橋で業を開き、烈公の待医となり、天保十四年(一八四三)弘道館内に併立された医学館の医学教授となった。『瘍科秘録』『続瘍科秘録』『内科秘録』の著述は棗軒の三大代表作として光彩を放っている。
棗軒は安政四年(一八五七)本邦初の下肢切断手術を脱疽患者に行っている。また、乳癌手術、膀胱結石摘出術、膣鏡の考案など創意発見するところが多い。さらに野兎病に関する指摘も行っており、野兎病に関する記載として世界で最も古いものである。棗軒は「天下第一の英物と申候は華岡一人かと奉存候」と口をきわめて称揚し、青洲を生涯の良師として仰いだ。外科史上ばかりか、漢方内科にも非凡の学識技能のあった棗軒は明治五年、六十九歳で没した。(参考・矢数圭堂『華岡流外科の大成者本間棗軒』)
52■ 喜多村直寛
徳川時代に開花した学問は、明治維新により断絶したものが多いので、幕未の学者の業績は必ずしも正しく評価されておらず、それは漢方医学界において特に甚しく、喜多村直寛についてその伝記はほとんど見るべきものがない。行状は墓碑銘が唯一のまとまったものである。
碑銘を中心に、諸書にみられる事項を補綴すると、文政天保の間、医学博通を以て天下の重望を負うもの三人あり、多紀元堅、小島学古、喜多村直寛がそれである。直寛は字が士栗、通称は安斎、後に父の称安正を襲ぐ。栲窓はその号、晩年に香城と号す。幕府医官槐園先生の長子で、母は三木氏である。
直寛は文化元年(一八○四)市ケ谷御門内の賜邸に生まれた。父槐園は喜多村家七代である。直寛は幼より聡明で、やや長じて安積艮斎に就いて経義をみがき、古文を学んだ。文政四年(一八二二)医学館に入り、翌年考試があって、首席に選ばれ、医学教読になった。天保二年(一八三一)二十八歳で家を嗣ぐ。天保十二年(一八四一)三十八歳のとき、医学館教諭となった。全国の医生は直寛の名を仰慕し、来謁する者が多かったという。その後、待医に任ぜられ、法印に叙せられた。
この間、国家に報恩のためといって『医方類緊』『大平御覧』を出版し、官に献納している。そのほか、医学館の『医心方』出版に校勘の役を担当し、また、『千金方』の「大医習業」や『服薬要抄』を出版配布したり、父槐園著の『蛕志』の印行、『傷寒論』『金匱要略』に関する著書を印行している。名著『傷寒論疏義』『金匱要略疏義』も刊行した。
しかし、「同僚と議協わざるあり」と、安政四年(一八五七)医学館世話役を辞し、翌年奥医師も辞して、退隠した。理由はいろいろ推測されるが、嗣子直敬が夭死したことも心を退隠に導いたともいわれる。退隠後も重なる不幸・病にめげず『老医巵言』『五月雨草紙』『医学啓蒙』など次々と著書を残している。明治九年(一八七六)没した。七十三歳であった。幕末を色どった考証学者の泰斗として、その名は不滅である。(参考・長谷川弥人『栲窓喜多村先生』)
53■ 森立之
江戸末期、考証学者として光芒を放ったのは森立之であった。立之は文化四年(一八〇七)江戸北八丁堀竹島町で出生。字は立夫、初め伊織、中ごろ養真、のちに養竹と号した。すなわち七代目養竹である。六代目は祖父養竹であるから、本来は立之の実父(養子)が七代目養竹を継ぐべきところであったが、放蕩のため離縁となったので、立之は祖父養竹の養嗣となり、七代目を嗣いだのである。母は家つきの娘で皆といい、八十一歳の長寿を保った。
立之は十一歳の時、当時十三歳の渋江抽斎に学んだというから、抽斎との交わりはすこぶる長い。文政四年(一八二一)祖父恭忠が没し、その二年後の文政六年に立之は抽斎の師である幕末屈指の考証学者伊沢蘭軒に直接師事することとなった。蘭軒の多くの門人の中でも渋江抽斎、森立之、岡西玄亭、清川玄道、山田椿庭は蘭門五哲と呼ばれた。
天保八年(一八三七)三十一歳の時、立之の言葉を借りれば「故あって禄を失い」祖母、慈母および妻子を伴って相模の地に落魄した。落魄時代の十二年間は望まずして与えられた研学のための絶好の機会であったといえるかもしれない。すなわち、その間『遊相医話』『桂川詩集』を著わし、また『神農本草経』『素問霊枢』『傷寒論』『金匱要略』『扁鵲倉公伝』などにそれぞれ攷註を行ったのである。
弘化五年(一八四八)ようやく主家への帰参が許されて、江戸にもどり、翌年一月の医学館の開講日に初めて聴聞列席した。安政元年(一八五四)『神農本草経攷註』が刊行され、医学館の講師に任ぜられたが、同年末には医学館の『医心方』校刊事業にも助校を命ぜられた。安政五年将軍家茂に謁見が許され、御目見医師に列せられた。慶応四年(一八六八)、幕府が倒れ、医学館も閉館された。
維新後の立之は職を転々としたが、明治十二年に同志とはかって温知社を組織している。明治十八年七十九歳で、波乱に満ちた一生を終った。立之の業績のうち特筆すべきは『神農本草経』の復原刊行と、渋江抽斎らとの共編になる『経籍訪古志』の刊行であろう(参考・大塚恭男『森立之』)
54■ 山田業広
幕末考証学派の巨峰であり、明治に入って漢方存続運動の旗頭として温知社を結成した山田業広の偉業は、漢方医学史上に不朽なるものである。業広は文化五年(一八○八)高崎藩侯侍医由之を父とし、深井氏を母として、その長男として生まれた。字は士勤、通称は昌栄、号は椿庭である。
十七歳の時、父の病気のため、高崎侯に医を以て仕え、食禄二十五口を受く。文政九年十九歳で朝川善庵に儒学を修むる傍ら、伊沢蘭軒に医学を学んだが、まもなく蘭軒没し、後は多紀元堅につく。また痘科の秘訣を池田京水に受く。天保八年(一八三七)三十歳で、江戸本郷で開業。安政四年(一八五七)五十歳で、江戸医学館の講師となる。明治元年高崎に転居し、明治二年高崎藩の医学校督学となる。翌年藩政が改革されると医学大教授に任ぜられる。明治四年廃藩のため、その職を解かれた。
明治七年再び上京、開業。明治十二年同志を糾合して温知社を創立し、初代社首となる。翌年十月、明宮皇子(後の大正天皇)を拝診、以降およそ一ヵ月余りにわたって投薬。明治十四年一月、突然痱を発して喘息止まず、三月ついに死去、亨年七十四歳であった。嗣子業精は父の衣鉢をよく継いだ。
森立之の撰した「椿庭先生墓碣」碑文によると、業広には門弟およそ三百名、著書三十八部、百六十三巻、医経経方みな注釈あり、とある。しかし、その中で版に付されたものは『経方弁』がわずか一書あるのみである。業広はあくまでその学術を子孫や門下に伝えるだけのために、その研究成果を撰輯して書としたのであり、これを世に問い名誉を得たり、初学者に誤解を与えたり、無意味な議論にまき込まれるのを好まなかったのだとされている。週去多くの先輩諸氏がその散佚を嘆かれた業広の著作は、近年大部分の著作が確認された。また、北京中医研究院図書館に架蔵されていることが判明した『金匱要略札記』『金匱要略集注』は、最近影印復刻された。
まさしく時流の不偶とはいえ、業広の業績が正当に評価され得なかったことが、近年見直されつつあることは喜ばしい。(参考・寺師睦宗『椿庭山田業広』、真柳誠『幕末考証学派の巨峰椿庭山田業広』)
55■ 浅田宗伯
明治漢方最後の巨頭浅田宗伯について、当時の医学、儒学各方面の大家たちはその多彩な学殖を絶賛して、「栗園(宗伯)の前に栗園なく、栗園の後に栗園なし」と賛辞を呈した。
宗伯は文化十二年(一八一五)信州筑摩郡栗林村(現在の松本市島立)に生まれた。幼名を直民、後に惟常と改めた。字を識此、号を栗園と称した。また薬室名は「誤らしむること勿れ」より採って、「勿誤薬室」と名づけている。祖父東斎、父済庵は医家として業を成した。宗伯は十五歳の頃より自ら志を立て、秘かに大望を抱くようになり、高遠藩の藩医中村仲棕の門に入った。中村門下に居ること一年余で京都に上り、中西深斎の塾に入り古方を学んだ。その傍ら、経書を猪飼敬所に、史学を頼山陽に学んでいる。京都に在って勉学すること四年、天保七年(一八三六)二十二歳の時、江戸に下り医業を開いた。翌年四月、父の死去で一旦帰郷後、再度東上、江戸医界の三大巨匠といわれた多紀元堅、小島学古、喜多村直寛にめぐりあい、栄光への階段を一歩一歩と昇りはじめたのである。
安政二年(一八五五)幕府のお目見得医師となり、文久元年(一八六一)将軍家茂に謁見し、徴士の列に加えられた。慶応元年(一八六五)フランス公使レオン・ロッシュの難症を治し、医名は海外にまで響きわたった。翌慶応二年、法眼の位を授けられた。明治に入り、十二年宗伯六十五歳の時、明宮(のちの大正天皇)が生後間もなく全身痙攣をくり返し、危篤の状態に陥ったとき、宗伯の治療が効を奏し、日本の国体を救う大功労者となった。明治十四年には、漢方存続運動の結社、温知社の二代目社主となっている。明治二十七年三月十六日、満八十歳の多難、多彩、栄光に輝く一生を閉じた。
宗伯の著述の膨大さは、他に類をみない。その数は八十種類二百余巻になるといわれる。『勿誤方函口訣』『橘窓書影』『古方薬議』『脈法私言』『傷寒論識』『雑病論識』『皇国名医伝』『先哲医話』などは代表作である。宗伯の学殖の広大・多彩さはその文章、詩、書、いずれも衆に秀れ、単なる医師ではなく国を治す国医であり、史学者であり、文人であり、思想家でもあった。(参考・矢数道明『近世漢方医学史』)
56■ 村瀬豆洲
明治漢方界の三長老、三大家といわれ、宮中に召されて尚薬となったのは、東京の浅田宗伯、京都の福井貞憲、名古屋の村瀬豆洲の三人であった。
豆洲は天保元年(一八三○)生まれで、名は皓、字は白石、豆洲はその号である。本氏は堀田、幼名を彦次郎といった。十五歳で村瀬泉卿に従って医を学ぶ。泉卿が没したため泉卿の養子益斎に医を学び、二十四歳で開業した。その翌年、益斎が死去し、嗣子立庵が幼なかったので、益斎の二女をめとり、村瀬氏を嗣ぐ。慶応二年(一八六六)尾張藩主の謁を賜う。
明治二年、版籍奉還により侍医の名を改めて、一等医と称す。明治四年、旧藩公に従い東京に行く。明治十年、家を村瀬家嗣子立庵に家政を譲り、改めて豆洲と称す。明治十二年、浅井国幹が愛知博愛社を興し漢方存続運動の火蓋を切り、翌年県の許可を得て愛知専門皇漢医学校を設立したが、その時校長として迎えられたのが豆洲であった。
明治十九年、皇子久宮降誕で尚薬浅田宗伯の助勤となる。明治二十一年、皇女昭宮を拝診する。同年、皇女常宮降誕で尚薬となる。しかし、同年十一月に昭宮薨じ、侍医らが洋医を尚薬たらしめんとしているのを知って、職を辞した。明治二十一年、第六皇女昌子内親王常宮殿下(竹田宮大妃)ご生誕の際、豆洲は執匕筆頭を命ぜられている。明治三十八年、名古屋で死去、享年七十六歳であった。
豆洲は『幼幼家則』『方彙続貂』などの名著を残している。『幼幼家則』は中国の小児科常用処方を補足するに、本朝経験方を博く採用し、特に三代にわたって経験した村瀬家の家試方を数多く掲げ、湯液ばかりでなく、炙治による家伝方法を随所に指示しており、さすがに小児科の大家として貫禄十分の書である。『方彙続貂』は『古今方彙』の足らざるところを補足したもので、臨床家に便利な書である。
豆洲は文墨茶道にも精通し、性格は温厚寧静で、深沈の気象が眉間にあふれていたという。晩年は名古屋に帰り、悠々自適の生活を送った。(参考・矢数道明『明治漢方三大家の一人村瀬豆洲の生涯』)
57■ 曲直瀬流の医術について
安井広迪
曲直瀬道三は、古河の田代三喜のもとでの長い修業のあと、一五四五年に京都に帰り、医業を開始した。彼の医学体系は、金元医学の発展型である明医学に基づいたもので、特に朱丹溪の影響の濃いものであった。このことは『啓迪集』に明確に打ち出されており、彼の思想は、その医術と共に、弟子や孫弟子達に受け継がれた。
彼らの治療の実際がどのようなものであったのかということは、残された医案集を見ることによってある程度推測できる。
道三の治験例は、『出証配剤』の中に見られる。ここに記載された医案の全部が彼の手になったものであるという確証はないが、内容から見てほとんどが道三のオリジナルであろう。この医案集の特徴をなすものは、疾病に伴う各症候を分析してそれらを薬物の薬効と結びつけ、処方を組み立てていることで、これらは現代の漢方的見地から見ても参考になる部分が多い。
道三の嗣、玄朔には『医学天正記』という整った医案集がある。これには六○門三七四症例が記載され、その中には皇族、公卿、武将など多くの著名人が含まれている。ここには、当時の治療の標準的な考え方がうかがえるばかりでなく、半井瑞策や竹田定加、祐乗坊、上池院など、錚々たるメンバーの宮廷医達をむこうにまわし、見事な治療を展開する玄朔の面目躍如たる姿が見られる。
玄朔とその弟子達の世代になると、初代道三の時代よりも多くの資料が入手できるようになった。代表的なものに『本草綱目』『万病回春』『医方考』『医学入門』などがある。これらは盛んに研究されて日本に定着した。治験例にもそれはうかがえる。
玄朔の後継者とも言うべき岡本玄冶にはいくつかの医案集があり、そのうち出版されたのは『玄冶薬方口解』と呼ばれるもので、これは、五○門一三九例を載せる。これらの医案は一例一例が長く、なぜこの薬を用いるかという噛んで含めるような玄冶の解説が待徴的である。なお、著名人はほとんど出てこない。
玄朔の弟子の中で、玄治と並んでその名を知られた長沢道寿や、曲直瀬正純門下の古林見宣にも医案集が残されている。道寿は、彼のもう一人の師、吉田宗恂の影響もあって古医案を大切にし、よく研究した。このことは『治例問答』『藪門医案実録』などによくうかがわれる。また六九九例を載せた『道寿先生医案集』には、補注補中益気湯、六味丸、加味逍遙散などを多用した彼の処方の傾向がよく出ている。
古林見宜には、弟子の松下見林のまとめた『見宜堂医按』という医案集がある。見宜は豪放不覊、天才肌の人であったので、治療にもそれがあらわれた。秀才肌の岡本玄冶とは対照的な存在である。この医案集の中でも、時に意表をつく治療が見られ、さまざまな奇証をあざやかに治癒に導く様子がよく描かれている。注目すべきは、すでに『傷寒論』を用いた治療を行っていることで、その意味で彼は『傷寒論』の臨床応用の先駆者と言えよう。
曲直瀬流の医術は、道三より数えて第三世代までは順調な発展を見せてきたが、第四・五世代で本来の形を失い始める。それにはいろいろな理由が考えられるが、ここでは割愛する。いずれにしても、三代にわたる曲直瀬流の医案を見ることは、当時の医療状況を知る上で極めて重要であると共に、現代の漢方医学を再検討する際にも大きな役割を果たすであろう。
58■ 古方派の人々とその思想
大塚恭男
古方派を字義通り解釈すれば、古医方、すなわち張仲景方を宗とする学派ということになり、富士川游以来、名古屋玄医を以て鼻祖とする考えが行われてきた。「沫泗の間、古は楊墨路に塞る。盂子辞して之を闢いて廓如たり。南陽の岐、後に路に塞る者は劉朱の徒にして、陰虚の説を言う者、是なり。我ひそかに盂子に比す」(『丹水子』)とする玄医の語がその根拠とされている。しかし、玄医について詳細に検討された花輸寿彦氏の近著によると、玄医の学説は曲直瀬すなわち後世派の学説を否定する形で構築されたのではなく、中国の「易水学派」と「錯簡重訂学派」の影響下に形成されたものであり、「貴陽賤陰」、「扶陽抑陰」を治療指針とする独自の生命観に立って古典への同帰を説き、その線上に『傷寒論』があったというのである。従って『傷寒論』が唯一無二の教本であった訳ではなかったし、その説くところも金元ないし、その系列につながる明清の学説の影響が色濃く残っている。
名古屋玄医に入門を申しこんで断わられたという逸話の持主である後藤艮山もまた必ずしも張仲景を特に信奉したわけではなかった。彼にとって張仲景は、「素霊、八十一難、張機、葛洪、巣元方、孫思邈、王燾らの書・・・・」と列挙されたうちの一人に過ぎなかったし、実践の上でも仲景方を多用した形跡はみられない。彼は一気留滞説の提唱者として知られる。『三因方』のいわゆる内所因、外所因、不内外所因の意義は認めつつも、発病の決定的因子としては生体の防衛機転をつかさどる気の機能が破綻をきたしたことにあるとするもので、治療法としては、食餌療法、灸、熊胆、蕃椒、温泉、懸瀑、順気剤、民間療法などの多岐にわたった。これよりすると艮山はむしろ葛洪に親近感をもっていたように思われる。
艮山の門人である香川修庵は、艮山より更に一歩進んで、『傷寒論』をも批判の対象とした。三陰三陽の分類を否定したからである。修庵はすぐれた学者で、古典に通暁していたことは彼の著書『一本堂行余医言』、『一本堂薬選』にみることができるが、信奉するに足る古典や先人は遂に見出し得なかったとして「自我作古」の言をなすに至っている。
艮山のいま一人の門人である山脇東洋は、古方派の中では最も張仲景を信奉し、その方を多用した人ではなかったかと思われる。しかし、彼とても仲景方のみを使用したわけではなく、『外台秘要方』復刻に努力した経緯よりみても視野の広い人物であったことが思われる。東洋の目標としたところは、「古の道に拠って今の術を採る」ことであり、重要なのは張仲景の実証的精神なのであって、実践においては古方にしばられないとするものであった。東洋が外国の解剖書に刺激されて、一七五四年に本邦最初の人体解剖を行い、その記録を『蔵志』(一七五九)にとどめたことは有名である。
古方派の人材中でも特に異色の存在である吉益東洞は万病一毒説の提唱者として知られる。東洞によれば、あらゆる病気はただ一種類の毒によって生ずる。その毒は後天的に体内に生ずるものであるが、毒の発生即発病というわけではなく、それが活動し始めると発病になるという。毒の種類が一種であるのに万病が存在するのは、毒の所在部位によって病態が異るためである。以上が彼の説の骨子であるが、体内に存在する毒の所在を明らかにするためには従来の診断法に加えて腹診が重要であるとして、腹診が体系化されるに至った。「病応は体表にあらわる」という扁鵲の言葉がその背景にある。東洞は『傷寒論』を換骨奪胎して、処方別に配列した『類聚方』を作り、各方剤の証を探求した。そして、更に、各生薬について、その生薬を構成成分としている方剤を列挙した上で、生薬の証を求めるべく『薬徴』を著わした。
以上が古方派の中の主要人物の略歴であるが、これらを通覧してみると、古方派の人々が、その額面通りに古方を金科玉条としたわけではない。彼等に共通して言えることは、これも程度の差はあるが、金元流の病埋論、薬理論に対して批判的であったということであろう。一方、後世派と呼ばれる人々の中にも、張仲景方に充分の敬意をはらった人もあり、金元流の煩瑣な理論に深入りせず、経験、口訣の類を重んじた人も少なくない。親試実験を古方派のみの看板とするのは誤りであるとの批判もある。古方、後世方、更に蘭方が対立と習合を繰り返しつつ、それなりの成果をあげて、幕末に及んだと思われる。
59■ 江戸考証学の人々とその遺業
小曽戸洋
考証学は中国の清代に一世を風靡した学問、もしくはその研究方法である。この清朝を代表する考証学の学風は「実事求是」に標語されるように、文献資料を博捜・選択し、客観的事実に基づいてその真相・真理を究明しようとするものであった。それは自己の主観的見解によって経書を解釈したため客観的論拠を欠き空疎に流れた明代の儒学に対する厳しい批判として起こったものである。その研究は経史をはじめ、文字・音韻・制度・地理・暦算・金石・書誌ほかの広い分野に及んだが、ただ医学の分野において瞠目すべさ業績は見られない。
わが国にこの清朝考証学が広く認識され行われるようになったのは、江戸末期に近い文化文政前後のことである。すなわち一八世紀中葉に公平客観を標し、折衷考証の学をもって学界に一躍名を馳せたのが井上金峨で、その弟子の吉田篁墩は考証・校勘・書誌学者としてとりわけ傑出し、わが国における書誌学研究の端緒を開いた。さらに篁墩の業を継いで考証学を確立した人物として狩谷棭斎がいる。喜多村直寛は棭斎をわが国考証学者の第一人者として評価する。棭斎は伊沢蘭軒の師として医学における幕末考証学に多大な影響を与えることとなった。
幕末における考証学・書誌学の担い手の多くは医家であった。書誌学研究の総決算と評される『経籍訪古志』『留真譜』の編纂に携わった人々がそれである。儒学における宋学(朱子学)→古学→考証学の推移と、医学における後世方→古方→考証学の流れとは、思想史的に密接した関係にある。そこに歴史的必然性を否定することはできないであろう。
医学における江戸考証学の口火を切ったのは目黒道琢であった。『素問』『霊枢』『難経』『傷寒論』『金匱要略』はおろか、宋金元明の諸医書に精通していた道琢は、多紀元孝に抜擢され医学館講師となり元徳の時代を通じてその任にあたった。道琢のこうした学問の背景にはいわゆる後世派的思想があった。事実、彼は若くして曲直瀬塾の塾頭を務めていたのである。後世派のアンチテーゼとして古方派が出現し、さらにそのアンチテーゼとして考証派が起こったとする視点において、道琢は一つの大きな鍵を握っていたということがでさよう。
医学館を江戸考証学の一大拠点として名実ともに不動のものとしたのは多紀元簡である。元簡は井上金峨を師とし、その卓抜した素質を遣憾なく発揮した。代表的著述『傷寒論輯義』『金匱要略輯義』『素問識』『霊枢識』『観聚方』は普く知られるところである。
元簡の嫡子元胤は太田錦城を師とし、父の学問を襲った。代表作に『医籍考』『難経疏証』がある。元簡の庶子元堅は元胤の亡きあとを継ぎ、医学館を督した。『傷寒論述義』『金匱要略述義』『素問紹識』『雑病広要』など多数の著書をなしたほか、宋版『干金方』、半井本『医心方』の校刻に尽力した。善本医籍の探索・蒐集と、その校刻事業は、江戸医学の人々が遺した最大の業績の一つである。
鷗外の歴史小説で著名な伊沢蘭軒は、狩谷棭斎の門人で、医を目黒道琢に学んだ。蘭軒の門下からは渋江抽斎・森立之・山田業広などの逸材が輩出した。
江戸考証学の一翼を担った人物として小島宝素・春沂父子の業績も忘れることはできない。名だたる著述がないので正当な評価がなされないきらいがあるが、ことに医籍の校勘にかけてはすこぶる綿密かつ多量の業績を残している。その遺書の多数を入手した清末考証学の異才揚守敬が絶賛を惜しまないゆえんである。
喜多村直寛、渋江抽斎、森立之、山田業広はそれぞれ文化一、二、四、五年と生年が近接している。直寛はその筆頭として数々の業績を遺しているが、ある意味では正統江戸考証学の範疇には入れ難い思想の持ち主である。
抽斎は蘭門五哲の首と称されたほどの人物であったが、長命ではなかったため、さほど多くの著述は遺していない。『霊枢講義』が最も光る。業広はこれに対し、枚挙に暇のないほど数多くの著述をなした。
道琢に始まり、元簡→元堅らへと拡充した江戸考証学の業績を集大成したのは、何といっても森立之である。立之は若くして棭斎、次いで蘭軒門下に入り、最も恵まれた時期を生き、最寿命を保ってこれらの業績をわがものとしたのである。あらゆる知識を吸収しようとする不屈の精神とその天賦の長寿は、江戸考証医家の何人の追従も許さぬ質量の著述を生んだ。明治十八年、立之の逝去をもって江戸考証学は終焉を告げた。
― 来年で百年になる。
追記:右の原稿を書いたのは昭和五十九年のことであったが、その後十年の間に上述の考証学者の主な著述の大半は影印出版されることとなった。その業績の発掘と顕彰に微力を注いだ一人として感慨深いものがある。今日これらの影印本は続々と中国へもたらされ、中医古典研究の資料として活用されつつある。清朝考証学は医学の分野において日本で花開き、百五十年を経て中国に報いることになったのである。日本の考証医学の水準の高さを物語るものであり、今後さらにその学問は目本でも中国でも再認識されることになろう。〈安井広迪・大塚恭男・小曽戸洋各氏の原稿は「日本の漢方を築いた先哲医家追薦祭記念講演要旨」を一部加筆再録したものである〉
web版制作:2005/05/14
東亜医学協会